187話「灰の中の声」
「――そんなことありませんよぅ、お姉様」
不意に、鼓膜を震わせたその響きに、ザラの瞳が大きく見開かれた。
あり得ない。そんなはずはない。
ザラは何度も自分に言い聞かせた。彼女は死んだ。あたしを置いて、灰となって消えてしまった。これは今際の際に見る、質の悪い幻覚か、あるいは脳が作り出した聞き間違いに過ぎないのだと。
「――スピ、カ……?」
しかし、その声は、かつて何度もあたしの荒んだ心を溶かしてくれた、あの春風のような質感を持って、再び優しく響いた。
「お姉様、見てください。今のお嬢様を。……私が信じた、あの人の背中を」
ザラは、吸い寄せられるように顔を上げた。
揺れる視界の先、白光に包まれた戦場の中央。
そこに、一人の少女が立っていた。
ノクティア・グラスベル。
彼女の硝子のドレスは、もはや見る影もなく引き裂かれていた。白い肌には無数の切り傷が走り、雷撃の熱に焼かれた火傷が痛々しく赤く腫れている。肩で息をし、細い足は生まれたての小鹿のように震えていた。
きっと、あと幾ばくもしないうちに、あの細い肩は、戦神の雷に焼かれてしまうだろう。
だが。
彼女の瞳だけは、一分の曇りもなく、また、諦めもなく、目の前の圧倒的な暴力を見据え続けていた。
それは、略奪の限りを尽くす帝国の"姫"の姿ではなかった。
周囲に傅かれることだけを知っている、世間知らずの令嬢のものでもなかった。
ただ、倒れ伏した騎士たちを、そして背後にいるザラを守るために。
己の身が砕け散ることを厭わず、一歩も退かずに立ちふさがる、真なる"守る者"の姿だった。
(……ああ、そうだったんだ)
ザラは、気づいた。
自分は、ずっとこの少女を"妹を奪った元凶"として見てきた。けれど、ノクティアもまた、スピカの死という重すぎる十字架を、その細い背中に背負い続けていたのだ。
ザラの視線が、ノクティアの胸元で鈍く光るブローチに留まった。
精巧に作られた硝子の細工。ザラは知らない。それがレグルス砦で、スピカの魂が一時的に顕現した際に残した、彼女の"欠片"が収められたものであることを。
けれど、理屈ではない何かが、ザラの魂に直接訴えかけていた。
あのブローチから溢れ出す、言いようのない温かさと、静かな意志。
(――そう、あんた。ずっと、そこにいたんだ)
スピカは、ノクティアの心の中に、今も息づいている。
ノクティアの魔法が、絶望を跳ね除ける虹色の光を放つたびに、その中にはスピカの献身が混ざり合っているのだ。
「ねえ、お姉様。私たち、幸せになれるといいですねぇ」
リフレインする妹の声。
穏やかで、争いを嫌って、どこまでも優しかったあの子。
あたしは、スピカが剣を執らなければならないこの世界を呪った。あの子を戦場へ連れ出したノクティアを憎んだ。
けれど、今のノクティアの戦う姿を見れば、分かる。
スピカは、強制されたわけでも、犠牲になったわけでもなかったのだ。
(そんな姿になってまで、そこにいるなんて――。あんた、あのお嬢様に仕えられて、本当に幸せだったのね)
最期まで胸を張って、自分の守るべきもののために命を懸ける。
スピカは、自分が魂を預けるに足る主君と出会い、そしてその想いをノクティアに託した。
あの子の死は、決して無意味な犬死になんかじゃなかった。
あたしだけが、あの子をかわいそうな犠牲者として扱い、彼女の意志を、誇りを、否定し続けていたのだ。
「……っ、ふ、ぅ……!!」
ザラの胸の奥で、冷え切っていた心臓が、唐突に熱い鼓動を刻み始めた。
折れた剣を、再び強く握り締める。
いつもより軽く、バランスを欠いた手応えは、やはりどうにも頼りない。
けれど、彼女にはもう、そんなことは関係なかった。
(あたしの中にも、まだスピカの言葉が残っている)
たった一人の妹は、自分の手の届かないところで死んでしまった。
(あたしの腕にも、まだあの子を守れなかった悔しさが、熱を帯びて残っている)
世界の不条理を、何度も呪った。
(だったら――あたしにできることは、ただ一つだけだ)
ザラの五体に力が満ちる。
痛みは吹き飛んだ。恐怖も諦観も、何もかもが心の端に寄せられた。
今はただ、胸を満たす、名状しがたい熱い感情を燃料に――その身を駆動させる。
ノクティアの目の前で、グリスが最後の一撃を放とうと、"ミョルニル"を高く振り上げた。
高密度の雷が収束し、夜の闇を真昼のような白光で塗り潰す。
「終わりだ、硝子の姫君!! 貴様の物語ごと、灰に還してやるわあッ!!」
死の雷鳴が放たれる、その直前。
――ガァァァァァァァンッ!!
ノクティアの横を、凄まじい風が駆け抜けた。
「……え?」
驚きに目を見開くノクティアの隣に、影が落ちる。
泥にまみれ、血に染まり、それでも一歩も揺るがぬ意志を湛えた、王国の"壊刃"。
折れた刃を携えて――ザラは、その一撃を受け止めた。
絶望を喰らい、死を越えて。
最強の老兵を前にして、傷だらけの少女は、不敵な笑みを浮かべながら、傷付いた体で、ノクティアの隣に並び立つ――。
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