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186話「届かぬ刃」

◆◇◆


 耳の奥で、甲高い耳鳴りが鳴り止まない。


 視界は(すす)と熱波に歪み、肺に吸い込む空気は焼けた石畳と雷撃の、刺すような匂いに満ちていた。


 ザラ・シューエが意識を取り戻したのは、まさにその最中だった。


(……あたしは、生きてる? でも、何故……)


 全身を走る、皮膚を焼かれるような熱い痛みと、深部から響く重い鈍痛。グリスの放った、あの太陽の核を叩きつけるような一撃をまともに受けたはずだった。肉は弾け、骨は砕け、そのまま暗い淵へと沈むはずだったあたしの意識が、こうして再び現実に繋ぎ止められている。


 ザラは震える腕に力を込め、顔を上げた。


 その視線の先で繰り広げられていたのは、神話の戦場を切り取ったかのような、凄惨で、けれどあまりに一方的な"蹂躙"だった。


「がはははは! 脆い、脆いぞ硝子の姫君! 貴様の魔法では、我が心の昂りまでは防げぬようだな!」


 グリスの咆哮が響く。


 その拳が振るわれるたび、空間そのものを融解させるような白熱の雷光が爆ぜる。対するノクティアは、必死に指先を躍らせ、幾重にも重なる硝子の積層装甲を構築してそれを受け止めていた。


 ――バリィィィィィィィン!!


 だが、その盾は一瞬も持たない。


 グリスの"ミョルニル"が帯びる超高温は、絶縁体であるはずの硝子を物理的に溶かし、その構造を内側から崩壊させていく。盾が割れるたびに、ノクティアの美しいドレスは破片となって散り、彼女の白い肌には火傷の跡と切り傷が増えていく。


 それでも、ノクティアは退かなかった。


 彼女は自分の身を守るためだけではなく、その後ろに倒れ伏しているあたしを――ザラを射線から外さないよう、あえて回避を捨てて、壊れるためだけの壁を造り続けていた。


(……救うつもりが、救われた、ということか)


 ザラはその光景に、屈辱にも似た激しい衝撃を覚えた。

 自分から妹を奪った"呪われるべき姫"に、今まさに自分の命が繋ぎ止められている。その矛盾。その理不尽。


 これ以上、あの女に借りを作りたくない。


 あの子の死の責任を背負うべきあの令嬢に、守られてなどいたくない。


 ザラは泥と血にまみれた石畳を掴み、無理やり身体を押し上げた。


 視界が明滅し、内臓が悲鳴を上げるが、そんなものは精神の力でねじ伏せる。戦場に生き、死線を潜り抜けてきた"壊刃"の誇りが、彼女を再び立たせようとした。


 手にした愛剣。


 幾多の戦場を共に駆け抜け、帝国兵の首を跳ね、分厚い鎧だって断ち切ってきた、自分の一部とも言える肉厚の大剣。


 その柄を掴み、一気に持ち上げようとした瞬間。


「…………え?」


 軽い。

 あり得ないほど、軽かった。


 視界に入ったのは、かつての威容を誇った重厚な刃ではなかった。


 その大剣は、半ばほどで不自然な曲線を描き、赤黒く変色し、溶断されていたのだ。


 グリスの一撃を受け止めた際、あまりの熱量に鋼が耐えきれず、まるで飴細工のようにドロドロに溶け落ちてしまったのだろう。


 ザラの手の中に残されたのは、もはや武器としての機能を失った、ただの熱い鉄屑だった。


 それを見た瞬間、ザラの胸の奥で、張り詰めていた何かが音を立てて千切れた。


 急激に、戦意という名の熱が指先から逃げていくのを感じる。


 戦えない。

 剣士が剣を失い、守り手が守られる立場に墜ちた。


 これ以上、どうやってこの"神々の争い"に介入しろというのか。


(――駄目だ。あたしはまた、失うのか)


 暗い水底に沈んでいくような感覚の中で、ザラはあの日、レグルス砦の報を聞いた時のことを思い出していた。



 あの日、もしあたしがグラスベル邸を去っていなければ。

 あの日、もしあたしがスピカの隣にいたならば。


 

 そうすれば、あの子の運命を変えられたのではないかと、呪いのように自分に問いかけ続けてきた。


 けれど、今、目の前で起きている現実が、その淡い希望を無慈悲に粉砕していく。


 これが、"姫"や"遺物"の力を用いた、本物の戦いだ。


 ただの人間がどれだけ剣を磨こうと、どれだけ鍛錬を積もうと、一振りの雷撃で、一欠片の魔法で、積み上げてきた人生のすべてが容易く溶かされる。


 ザラの心に、諦めが差す。スピカの仇を討つだの、あのお嬢様の価値を見定めるだの、大層な口を叩いておきながら。結局はこうして、冷たい石畳の上で倒れ伏し、守られるしかない、ただの弱い人間じゃないかと、自嘲が心を膿ませていく。


(結局、ここでもあたしは……弱いままだ)


 "壊刃"と呼ばれ、人々に恐れられ、最強の騎士を目指したつもりでいた。


 けれど、そんな虚飾を剥ぎ取れば、あたしはあの日、燃える村の焼け跡で震えていた、あの無力な子供のままだったのだと、そう、自覚させられていた。


 ノクティアの背中が、雷光に照らされて白く輝く。


 彼女もまた、必死に、手遅れになるのを防ごうと足掻いている。


 けれど、その懸命な姿が、今のザラには痛々しく、そして鏡のように自分を映し出しているように見えた。

 

 何かを救いたいと願い、けれど現実に裏切られ。


 間に合わなかった結末(シンデレラ)を背負って、それでも空っぽの掌を空へ伸ばし続ける。

 

 ザラは折れた剣を見つめたまま、震える拳を握りしめた。

 

 本質は変わっていない。


 肝心なところで、この手はいつも、大切なものに届かない――。


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