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185話「刃の記憶-前」

◆◇◆


 目の前が、真っ白に染まった。


 視界を埋め尽くすのは、グリスの拳から溢れ出す、理不尽なまでの雷光。


 鼓膜を焼くような高周波の音と、鼻先に迫る雷撃の匂い。死が、すぐそこに指をかけているのが分かった。


 ああ、あたしはここで終わるのか。


 不思議と恐怖はなかった。ただ、身体が鉛のように重く、けれど意識だけが急速に透明になっていく。

 

 意識の混濁の中で、ふと、懐かしい声が聞こえた気がした。




『ねえ、お姉様。私たち、幸せになれるといいですねぇ』




 柔らかくて、春の陽だまりのような声。


 目を閉じれば、いつだってあの子――スピカの声を思い出すことができる。スピカはいつも、口癖のようにそう言っていた。あたしの荒んだ心を宥めるように。自分たちが、いつか報われる日が来るのだと信じ込ませるように。




 あたしたちの物語は、灰の中から始まった。

 



 物心つく前、あたしたちが住んでいた村は、帝国の"姫"による略奪の被害を受けた。


 そこは、グラスベル領と他の貴族の領地のちょうど境界線に位置する、名もない小さな村だった。不運だったのは、その立地だ。どちらの領主にとっても"端っこ"だったその場所には、異変を知らせる急報も、国境警備隊の到着も、すべてが遅すぎた。


 瓦礫の山と化した故郷の光景を、あたしは正確には覚えていない。


 塵一つ残さずに弑された両親や親族の顔も、共に遊んだはずの村民たちの名前も、何一つ思い出せない。


 それが幼さゆえの忘却なのか。それとも、あまりに凄惨な現実に心が耐えきれず、深い闇の底へ蓋をしてしまっただけなのか。それは今でも分からない。

 

 けれど、地獄のような焼け跡の中で、あたしの小さな手をぎゅっと握りしめていた温もりだけは、鮮明に覚えている。


 妹のスピカ。


 血を分けた、あたしにとって唯一の家族であり、生きる理由そのもの。


 それから、あたしたちは生存者の救助にやってきたグラスベル伯――ノクティアの父親に拾われることになった。


「よかったですねぇ、お姉様。これで、私たち――」


 伯爵が差し伸べてきた大きな手を見上げて、スピカが浮かべていた表情を、あたしは一生忘れない。


 それは、自分が死の淵から救われることに対する安堵ではなかった。


 自分よりも傷だらけで、自分よりも絶望していた姉であるあたしが、これ以上苦しまなくて済む。そのことだけを、心から祝福するような、慈愛に満ちた聖母のような微笑みだった。


(どうしてあんたは、いつも自分のことを後回しにするんだよ……)


 その時、あたしは誓ったんだ。

 この子のその笑顔だけは、二度と誰にも奪わせないと。


 それから、あたしたちはグラスベル領で生きることになった。


 孤児となったあたしたちに与えられたのは、グラスベル邸の侍女見習いとしての席だった。

 

 朝は早くから床を磨き、昼は洗濯に炊事、夜は礼儀作法の講習。


 スピカは何をやらせても器用だった。彼女の淹れる紅茶は香り高く、彼女が磨いた窓は鏡のように空を映した。あたしといえば、皿を割るわ、掃除中に家具を壊すわで、散々な出来だったけれど。


 けれど、あたしたちにはもう一つの"役目"があった。


 それは、有事の際に主を守るための、護衛としての修行だ。

 

 家事の合間を縫って行われる、厳しい剣術の訓練。


 あたしたちには、元々、戦いの才があったのだろう。自分たちを襲った"姫"への、無意識の恐怖が糧になっていたのかもしれない。


 一度剣を手にすれば、大人の騎士とさえ、単騎で対等以上に渡り合えるまでになった。


 風のように鋭く、灰のように掴みどころのない太刀筋を持つ"灰刃"。


 力任せに全てを叩き伏せ、敵の防御ごと粉砕する"壊刃"。

 

 いつしか、あたしたちはそう呼ばれ、グラスベル領の内外問わず、その名は知れ渡っていった。

 

「お姉様、そんなに怖い顔をしなくても大丈夫ですよぉ。私たち、きっと幸せになれますから」

 

 訓練の後、泥と汗にまみれたあたしの頬を、スピカはいつも優しく拭ってくれた。


 彼女は剣の天才だったけれど、その本質はどこまでも優しかった。人を傷つけるための鋼を握るよりも、誰かのために花を活けることを好むような、そんな子だった。


 スピカが強くなればなるほど、あたしの中の焦燥は募っていった。

 

 あの子に剣を振らせたくない。

 あの子の手を、これ以上、血と脂で汚したくない。


 あたしがもっと強ければ。あの子が戦う必要がないほど、あたしが圧倒的な騎士になれれば。あの子はただの侍女として、笑って紅茶を淹れていられるのに。

 

 けれど、グラスベル領にいる限り、得られる強さには限界があった。


 もっと強く、強くならなければ、この子を守ることなどできはしない。


 そう感じてから、決心するまでは早かった。


「あたし、家を出るよ。……もっと広い世界で、本物の修羅場を潜って、誰にも負けない力をつけてくる」


 ある夜、あたしはスピカにそう告げた。


 スピカは驚いたように目を見開いたけれど、すぐにあたしの意図を察したのか、悲しそうに、けれど深く頷いた。


「お姉様は……あたしのために、騎士になるつもりなんですね」


「違うよ。あたしが、あたし自身のために強くなりたいだけだ。……だから、あんたはここで待ってて。あたしが帰ってくる頃には、あんたが一生、剣を握らなくていいような世界にしてやるから」


 それが、あたしの傲慢な愛だった。


 あの子を幸せにするために、あたしはさらなる戦場へと身を投じる。


 そんなことが正しいと――本気でそう、思い込んでいた。


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