184話「暴虐の雷帝」
空気が、あまりの高電圧に悲鳴を上げていた。
視界が白く塗り潰されるような錯覚。次の瞬間には、巨神の拳が、私の至近距離まで迫っていた。
「――っ! 間に合って!!」
私は反射的に、全ての魔力を一点に集中させ、分厚い硝子の多層防壁を構築した。
ガキィィィィィィィィン!!
耳を劈く衝撃音とともに、私の身体は硝子の壁ごと軽々と打ち上げられた。絶縁体であるはずの硝子は、雷そのものは遮断したが、グリスの拳に込められた質量と運動エネルギーまでは相殺しきれない。
「あ、が……っ!!」
石畳を数十メートルも転がり、背後の城壁に激突してようやく停止する。
肺が潰れ、心臓が爆発しそうなほどの衝撃。視界が点滅し、意識が遠のきかける。
(――ッ、二撃目は防げない。次は……倒される!)
私がそう確信した刹那、蹂躙を続けようとするグリスの前に、数名の近衛騎士たちが立ち塞がった。
「ノクティア様に指一本触れさせるな! 総員、突撃ィィッ!!」
それは、誇り高くも無謀な特攻だった。
グリスは一瞬だけ足を止めたが、その瞳には慈悲の欠片もなく、ただ"作業"を邪魔された者への不快感だけが宿っていた。
彼は右腕の"ミョルニル"を無造作に一閃させた。
ただの横薙ぎ。だが、そこから放たれた衝撃波は、突撃した騎士たちの鎧を紙細工のようにひしゃげさせ、彼らを広場の隅々までゴミのように吹き飛ばした。
「ふ、ははははは! ほら、どうした! まだまだ儂は、こんなものでは満足できんぞ!」
高笑いするグリス。
だが、彼が騎士たちを薙ぎ払った一瞬の隙を、あの女騎士が逃すはずはなかった。
吹き飛ばされた同僚たちの背後から、影のようにザラが躍り出る。
その刃を極限まで低く構え、グリスの喉元へと最短距離の刺突を放つ。
だが――届かない。
グリスの反応速度は、ザラの決死の踏み込みすら凌駕していた。
大剣が到達するよりも早く、グリスの強靭な脚が、鞭のように鋭い前蹴りを放った。
その鋼のようなつま先が、ザラの鳩尾に容赦なく突き刺さる。
「……が、はっ……!?」
ザラの矮躯が、くの字に折れ曲がって吹き飛ぶ。
私は地面を這いながら、必死に手を伸ばした。
「――ザラ! っ、あなた、よくも……!! "嬰児の檻"!!」
私は全魔力を振り絞り、グリスの周囲に巨大な硝子の檻を展開した。
迷路のように入り組んだ格子が、一瞬でグリスを包囲し、その身を拘束しようとする。
だが、グリスは檻が完成するよりも早く、構築の甘い一角を見抜くと、そこを裏拳一つで粉砕し、効果範囲から悠々と脱出した。
(っ、本当に化け物ね……。人間を相手にしている感じがしないわ……!)
私は深く息を吸い、焦燥を抑えつけようと脳をフル回転させた。
けれど、目の前の老兵が持つ経験と暴力を押し留める策が、どうしても思い浮かばない。
魔法が効かない。速度で勝てない。数で押しても無意味。
そんな私の絶望を見透かしたように、グリスは退屈そうに肩を竦めた。
「――出尽くした、か。ならば、馬鹿踊りも終いにしよう。貴様らの物語は、ここで終わりだ」
グリスは"ミョルニル"を手刀のように構え、その指先にまで高密度の雷を凝縮させた。
パチパチという火花が、次第にキィィィィンという高周波の音へと変わり、周囲の空気が熱に歪み始める。
彼は再び、雷速で私へと迫ろうとした。
その進路上には、まだ立ち上がれる数名の騎士たちが、盾を構えて必死に壁を作っている。
(ただならぬ雰囲気だけど……雷なら、さっきと同じ。私の施した硝子の鎧が守ってくれる――!)
そう思考した私の淡い期待を、グリスの不敵な嘲笑が打ち砕いた。
「――甘いわ、小娘が」
グリスが振るった雷の手刀。
それは絶縁体であるはずの硝子を、そしてその下の頑健な鉄の鎧を、まるで温めたナイフでバターを斬るかのように滑らかに切断した。
「……っ!? う、あああああッ!!」
騎士たちの断末魔。
血飛沫が舞う中、私はその理屈を悟り、戦慄した。
(……っ! まさか、"熱"……!?)
雷は単なる電気ではない。それは莫大な熱エネルギーの塊だ。
一般的な硝子の融点はおよそ 1600℃。鉄の融点と比較しても遜色ない耐熱性はある。だが、雷の芯温度は数万度にも達する。 グリスは電気を通そうとしたのではない。
圧倒的な熱量をもって硝子を"溶かし"、物理的に切り裂いたのだ。
瞬時にして無言の骸と化した騎士たちを乗り越え、グリスの手刀が私へと振り下ろされる。
私は死に物狂いで身を捩り、どうにか直撃だけは避けた。
頬を熱風が掠め、ドレスの一部がドロドロに溶けて剥がれ落ちる。
「ふははは、逃げてばかりでは、儂は殺せんぞ! ほら、どうした、次はどこを斬られたい!」
グリスはさらに一歩、深く踏み込んで追撃してくる。
避けられない。
何をしても止められない、大戦期の怪物。
それを前にして、私は今、強く"敗北"の二文字を意識していた。
振り上げられた巨大な拳。
せめてもの抵抗にと、震える指先で硝子の盾を生み出そうとした、その刹那――。
「――そこを、どけええええええええええっ!!」
鼓膜を揺るがす凄まじい怒号。
私の視界に、血塗れの、けれど鬼気迫る表情を浮かべた影が割り込んできた。
ザラ・シューエ。
先ほど蹴り飛ばされ、決して無事ではないはずの彼女が、狂気的なまでの意志力で立ち上がり、私とグリスの間に身を投げ出したのだ。
その瞳には、私への憎しみも、契約への忠誠も越えた、ある種の呪いのような光が宿っていた。
「こいつを、死なせは……しない……ッ!!」
ザラの叫びと同時に、グリスの放った雷の拳が、白光を放ちながら彼女へと飛来する。
回避は不可能。
防御する猶予もない。
ただ、彼女の身体が、私の身代わりとしてその理不尽な破壊を受け入れる。
ザラの目の前に、雷帝の拳が、刻一刻と迫る――。




