183話「断/絶つもの」
肺にまとわりつく、焦げ臭い匂いが、死の近さを饒舌に物語っていた。
策を考え直す時間は、そう余裕があるわけではない。一刻も早く、最適解を弾き出さなければ、私の行く末は炭化した塊だ。
全身から青白い火花を散らし、グリスが悠然と歩を進める。その存在は、もはや一つの自然災害だった。
(――なんとか、仕切り直さなきゃ。でも、どうしたらあの怪物を止められるの……?)
私が高速で脳髄を回転させ始めた、その瞬間――張り詰めた沈黙を破ったのは、味方の"叫び"だった。
「う、うおおお! 我々も、ノクティア様に続くぞ! 怪物一人の侵入を許すな!!」
包囲していた近衛騎士団の一部が、何を血迷ったのか、あるいは私たちが作った僅かな隙を勝機と見誤ったのか、一斉にグリスへと突っ込んでしまった。
「――馬鹿! 何やってるのよ、止まりなさい!!」
私の静止は、怒号と軍靴の音にかき消された。
グリスの視線が、煩わしい羽虫を見るかのように騎士たちへと向けられる。彼の右腕、ミョルニルが不吉な高鳴りを上げ、凝縮された雷光がその拳に集まっていく。
あんなの、彼らがまともに食らえば一瞬で消し炭だ。
ガーランドで"雪の女王"アダーラの圧倒的な氷の物量に、私の硝子の盾が紙細工のように粉砕された記憶が脳裏をよぎる。
(防げない……!? いいえ、やるしかないのよ!)
私は反射的に、騎士たちの前に巨大な硝子の防壁を構築した。
粉砕されることを覚悟で、せめて威力を減衰させようと目を細めた、その時だった。
バリィィィィィン!!
鼓膜を劈く放電音が響いたが、予想していた"硝子が砕ける音"は聞こえなかった。
それどころか、グリスの放った凶悪な雷撃は、私の硝子の壁に激突した瞬間、まるで意志を失ったかのように表面を滑り、四散していったのだ。
「……え?」
硝子の壁には、罅一つ入っていない。
私は呆然と自分の手を見つめ、それからすぐに、一つの"法則"に思い至った。
(――そうか。硝子は、極めて優秀な"絶縁体"だわ!)
アダーラの攻撃は"質量"と"運動エネルギー"を伴う物理的な氷だった。だから、私の硝子は硬度負けして砕かれた。
けれど、グリスの主力はあくまで"電気"だ。
電気を通さない硝子という物質は、雷帝という属性特化の怪物にとって、天敵とも言える相性を持っていたのだ。
「みんな、そのまま下がって! ザラ、作戦変更よ!」
私は確信を持って、魔力を練り上げた。
"シンデレラ"の権能は、単に硝子を造るだけではない。それは物語を彩る"装い"を定義する力。
「――"硝子の外套!"」
私は駆け寄る近衛騎士たちの鎧の表面を、極薄かつ強固な硝子の膜でコーティングした。これならば、グリスの電撃が直撃しても、電流は地表へ逃げ、中の人間が焼かれることはない。
そして、最後の一仕上げ。私はザラの背中に手を伸ばし、彼女の全身に最も強固な絶縁の鎧を纏わせようとした。
「ザラ、あなたにも――」
だが、その瞬間だった。
私の指先から放たれた虹色の魔力がザラの肌に触れた刹那、構築されるはずだった硝子の鎧は、甲高い音を立てて砂のように崩れ落ち、石畳に散らばった。
「……え? ザラだけ、どうして……?」
魔法の不発。今まで一度も経験したことのない事態に、私は愕然とした。私の魔力は十分だ。夜の加護も、何一つ欠けていない。
だが、私の魔法は明確に、ザラという存在にだけ"拒絶"されたのだ。
「私には、魔法の産物は不要です。……お嬢様は、自分の身だけ守っていなさい」
ザラは私を振り返ることさえせず、忌々しげに砂を払うと、大剣を構え直した。その背中はどこまでも頑なで、私の助けなど最初から期待していないと告げているようだった。
目の前で、自慢の雷撃を完全に無効化されたグリスは、意外そうに目を細めていた。
だが、その驚きはすぐに、獰猛な肉食獣のような笑みへと変わっていった。
「がっはっはっは!! 面白い、実に面白いぞ小娘! 儂の雷を拒むか。魔力の出力ではなく、この世の理で対抗してくるとはな!」
グリスはミョルニルを打ち鳴らし、大気を震わせる笑い声を上げた。
彼にとって、この逆境は苦痛ではなく、久しく味わっていなかった"良質な娯楽"に過ぎないのだ。
「よかろう。我が本気の破壊の前に、貴様らがどこまで足掻けるか……。ここからは儂の、本物の"武"の味を教えてやろう!」
グリスの全身から、先ほどまでとは質の違う、暴力的な闘気が溢れ出す。
絶縁の鎧は、直接的な打撃まで防いでくれるわけではない。むしろ、遠距離攻撃を封じられたことで、彼は最も得意とする近接蹂躙へとシフトしようとしていた。
私は砕け散った硝子の砂を見つめ、言いようのない不安に胸を締め付けられた。
ザラの拒絶。そして、本気で楽しんでいる怪物。
戦いはまだ始まったばかりだった。
私はザラの背中を見つめながら、彼女の頑なな心に、いつになれば私の魔法は届くのだろうかと、一瞬だけ思案する。
そのすれ違いが、ここで私たちの道を絶たなければいいと――そんな願いを、抱きながら。




