182話「鏡上の円舞」
「では、小手調べだ。くたばるなよ、小娘どもが」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の世界からグリスの姿が消失した。
否、消えたのではない。視覚が捉えられる限界を、彼が踏み出した一歩が置き去りにしたのだ。
「――っ!?」
反応すら許されなかった。
直後、私の左脇腹に、巨大な鉄塊で叩かれたような凄まじい衝撃が走った。
肺の中の空気が強制的に押し出され、視界が上下左右に高速で回転する。自分が吹き飛ばされたのだと気づいたのは、背後にあった厚い城壁に激しく激突し、石材が粉砕される音を聞いた直後のことだった。
「がはっ……、ぁ……っ!!」
激痛。視界が真っ赤に染まり、喉の奥からせり上がってきた鉄の味が口内に広がる。
激突の衝撃で瓦礫が降り注ぐ中、私は崩れ落ちそうになる膝を必死に叱咤した。
「っ、お嬢様!」
ザラの鋭い叫びが響く。彼女は即座に重厚な大剣を振り抜き、私のいた場所――今はグリスが平然と立ち尽くしている地点へ、地を這うような鋭い薙ぎ払いを放った。
だが、グリスはその巨躯に見合わぬ軽やかさで、雷の籠手"ミョルニル"を盾代わりに突き出し、ザラの渾身の一撃を容易く受け流した。
ガキィィィィィィン!!
火花が夜の闇を散らし、グリスは反動を利用して軽快なバックステップを踏む。
ザラは追撃せず、すぐさま私の元へと駆け寄り、剣を構えたまま背後で問いかけてきた。
「お嬢様、大丈夫ですか!? 立てますか!」
「ええ……。まだ、なんとかね。……硝子のドレスを何層にも重ねて纏ってなかったら、今ので肉塊になってたかもしれないけど」
私は、砕け散った硝子の破片がキラキラと舞い落ちる中で、脇腹を抑えながら立ち上がった。
今の一撃、魔法の自動防御が反応していなければ、私の肋骨は文字通り粉砕されていただろう。
(――速い。あの巨躯も、老いも、重厚な装備も……すべてを感じさせない。まさしく、雷速の踏み込み。あれを"歩法"と呼ぶには、あまりに理不尽すぎるわ)
純粋な速度差。そして、一撃で命を刈り取る膂力。
まともに打ち合えば、こちらが十回剣を振るう間に、彼は百回私を殺せる。
生半可な魔法攻撃では、彼に触れることさえ叶わない。
ならば――まずは相手から、その自由すぎる機動力を奪うしかない。
「――これならどう? "霧氷の鏡床"!」
私が指先を地面に突き立てると同時に、塔の前の石畳一帯に、魔力を込めた極薄かつ硬質の硝子が張り巡らされた。
鏡のように周囲を映し出すその床は、ただの硝子ではない。摩擦係数を限界までゼロに近づけた、究極の"滑る大地"だ。
「お嬢様、これは――?」
一瞬、足元の感覚の変化に戸惑った様子のザラだったが、彼女は私の意図を瞬時に察知した。
彼女は重い装備のまま無理に踏みとどまるのではなく、あえて後方へ跳ぶことで、滑る硝子の上から離脱する。
一方、攻勢に転じようとしていたグリスも、周囲の空気が一変したことを敏感に察知していた。
彼は私との距離を詰めるべく地面を蹴り込もうとしたが――。
「――っ!?」
次の瞬間、彼の巨躯が不自然に傾いた。
踏み切るために込められた強大な筋力が、摩擦を失った硝子の上で空回りし、その足が勢いよく前方へと滑り出したのだ。
いかなる武達者であれ、重力を無視することはできない。
「今よ!」
私は自分の足元に、スケート靴のような鋭い刃を持つ硝子の靴を即座に生成した。
"シンデレラ"として、魔法を自分の身体の一部のように操れる今の私にとって、この鏡床の上こそが主戦場だ。
私は氷上のプロスケーターのように滑らかに加速し、姿勢を低く保ったまま、手にした硝子の細剣をグリスの無防備な喉元へと突き出した。
滑り、姿勢を崩したグリス。
決まった――そう確信した刺突だったが、その先端は、グリスが反射的に振り上げた"ミョルニル"の小手に阻まれた。
「っ……! これでも防ぐの!?」
(機動力や攻撃力もさることながら――一番厄介なのは、この戦闘の勘ね。視覚や聴覚を超えた、死線を潜り抜けた者だけが持つ、野生の勘……!)
聖剣"アルシャイン"と同じく、魔法が体系化されていた太古から受け継がれてきた雷の籠手"ミョルニル"。
それは単なる武器ではない。持ち主の意志に呼応し、あらゆる死角を補う、まるで移動要塞のような堅牢な守り。
真っ向から攻めるだけでは、この鉄壁を崩すことは不可能だと、私は肌身で悟らされた。
だが、私一人が攻めているわけではない。
何かに気づいたグリスが、硝子の上でバランスを保ちながら、鋭い視線を上方へと向けた。
そこには、私が空中に構築した硝子の階を、風のような速さで駆け上がっていくザラの姿があった。
(あの子……なんだかんだ言って、連携ピッタリじゃない!)
ザラは指示も待たず、私が用意した足場を最大限に利用していた。
階の終点。グリスの頭上、数メートルの高さまで至った彼女は、重力と慣性のすべてを大剣に乗せ、一気に飛び降りた。
「落ちろ、老いぼれぇッ!!」
ザラの渾身の唐竹割りが、グリスの頭上から降り注ぐ。
対するグリスは、硝子の上で滑る足を強引に一歩踏み出し、地面を踏み壊すことで摩擦を無理やり作り出した。
彼は裏拳を繰り出すような横薙ぎの動作で、ザラの大剣を真っ向から迎え撃つ。
ギィィィィィィィ!!
大剣とガントレットが激突し、火花が夜空を焦がす。
空中から体重を乗せたザラの猛攻を防ぐため、グリスの胴が、一瞬だけガラ空きになった。
この好機を逃すほど、私は甘くない。
「とらえたわ!」
私はスケートの勢いを殺さず、最短距離でグリスの懐へと潜り込む。
全魔力を込めた硝子の細剣。
その鋭利な先端が、グリスの分厚い軍服を切り裂き、その胴体へ到達しようとした――その時。
「――いいぞ、小娘ども。もっとだ」
グリスの口元が、狂気的な笑みに吊り上がった。
「――ッ!? ザラ、離れて!!」
私が叫ぶよりも早く。
グリスの全身から、爆発的な、そして暴力的なまでの青白い雷が放たれた。
――バリィィィィィィィィン!!
「きゃあああああっ!!」
「……ぐ、ぅぅっ!」
至近距離での放電。
私とザラは、雷の衝撃波によって紙屑のように吹き飛ばされた。
硝子の床が激しい衝撃で粉々に砕け散り、周囲には濃密なオゾンの匂いと、焦げた石畳の煙が立ち込める。
地面に叩きつけられ、泥を噛みながら顔を上げると、そこには、煙の中からゆっくりと姿を現す、巨神の姿があった。
衣服こそ僅かに焦げているものの、その肌には傷一つない。
雷帝――その名に相応しい、絶対的な理不尽を背負った男は、愉快そうに肩を揺らした。
「まだ終わらんだろう? 硝子の姫君、そして、壊れた刃よ。……儂を楽しませると言った、その言葉……偽りではあるまいな?」
圧倒的な魔力の奔流を纏いながら、グリスは再び歩みを進める。
これだけの猛攻を経てもなお、彼は、いまだに本気すら出していない。
私は震える手で地面を掴み、自分の中に残された、次なる策を必死に手繰り寄せる。




