180話「雷帝、襲来」
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近衛騎士団に所属するサー・イザールは、今月末にその任を解かれることになっていた。
理由は至極単純なものだ。連邦との国境近くにある故郷の村で、年老いた両親が待っている。家業である農場を継ぎ、土にまみれて生きる。剣を鍬に持ち替えるその日を、彼は指折り数えて待っていた。
最後の大きな任務は、この"銀髪祭"の警備だった。
例年通りであれば、何が起こるわけでもない。祭りは盛大に、儀礼は粛々と。王都の平和を象徴するような、退屈で、けれど愛おしい年中行事を経て、彼は静かに軍歴を終えるはずだった。
「――クソったれめ」
石畳に横たわりながら吐き捨てたその言葉は、まるで自分ではない誰かの声のように、血の混じった濁りを含んでいた。
最初は、ただの落雷だと思った。
王宮の空は急激に暗転し、乾いた音とともに城壁の内側に青白い閃光が走った。それ自体は珍しいことではない。だが、その稲光の中から、巨大な"影"が立ち上がったのを見た瞬間、イザールは本能的に悟った。
あれは人間ではない。
あれは、災害めいた――意志を持った"死"そのものだ、と。
様子を見に行った数名の同僚たちは、瞬きの間に消滅した。
叫ぶ暇さえ与えられず、迸った雷光に焼かれ、その場には黒い炭と、ひしゃげた金属の残骸だけが残された。
近衛騎士団は、グラスベル領の国境警備隊のような、日夜死線を潜る実戦部隊ではない。大戦を知る世代も退役し、平和の毒に当てられて久しい。
それでも、彼らは王国が誇る選りすぐりの精鋭だ。英雄と呼ばれるほどの天賦の才はなくとも、誰もが数多の鍛錬を積み、一端の戦力として数えられるはずだった。
だが。
目の前の怪物を前に、その自負は粉々に打ち砕かれた。
「がはは! 儂は、グリス・トール=レオンテス! 止められるものなら、止めて見せい!」
巨神のような大男が、雷を纏った拳を振るう。
ただそれだけの動作で、大気を裂く衝撃波が発生し、重厚な甲冑に身を包んだ近衛騎士たちが、木の葉のように空中に舞った。
「う、うわあああああッ!!」
後輩の騎士が、決死の覚悟で槍を突き出す。だが、グリスはその槍の穂先を素手で掴み、ガントレットから漏れ出す電位によって、槍を伝わせて男を内側から焼き焦がした。
イザールは立ち上がることさえできなかった。
右足は衝撃で感覚を失い、視界は自分の額から流れる血で赤く染まっている。
練達の騎士たちが、まるで赤子のようにもてあそばれ、一人、また一人と沈黙していく。
鉄錆の匂いと、肉が焼ける嫌な臭いが、祝祭の夜気を汚していく。
(……ああ。こんなことなら)
震える指先で石畳を掻きむしりながら、イザールは故郷の光景を思い出した。
広大な畑と、温かいスープを用意して待っている両親の顔。
退団をあと一週間前倒ししておけば。せめて、昨日の非番の日に村へ向かっていれば。
後悔が波のように押し寄せ、彼は死を覚悟して、きつく目を閉じた。
目の前で、グリスが巨大な雷の塊を練り上げる音が、鼓膜を劈く。
それが放たれれば、この場に生き残っている者たちは、塵も残さず消し飛ばされるだろう。
――ガキィィィィィィィィン!!
耳を潰さんばかりの轟音が響いた。
だが、待ち構えていた熱狂的な痛みは来なかった。
「……え?」
イザールは恐る恐る目を開けた。
目の前に広がっていたのは、絶望を塗りつぶすほどに美しい、幻想的な光景だった。
グリスの放った渾身の雷撃。
その破壊的なエネルギーを正面から受け止め、弾き返していたのは、夜の闇にそびえ立つ"巨大な硝子の城壁"だった。
ダイヤモンドのように多面的にカットされた硝子の板が、複雑な幾何学模様を描きながら宙に浮き、雷光を幾千もの虹色へと屈折させて散らしている。
「もう大丈夫よ。……よくこらえたわね、みんな」
凛とした、けれど慈しみに満ちた声。
その主が、城壁の向こうからゆっくりと歩み寄ってきた。
イザールは息を呑んだ。
そこに立っていたのは、煌めくドレスを纏った、この世のものとは思えないほど美しい少女だった。
彼女が歩くたび、足元の石畳からは硝子の破片が星屑のように舞い上がり、彼女の身を包む魔力は、グリスの放つ禍々しい稲光をさえ凌駕する輝きを放っている。
それは、物語から抜け出してきた本物の"姫"だった。
「――"シンデレラ"……!」
誰かが、祈るようにその名を呟いた。
絶望に染まった王宮の中庭に、一筋の希望が、硝子の輝きとともに降臨したのだ。
ノクティアは、倒れ伏す騎士たちを背に、眼前の"怪物"を毅然と見据えた。
その背中には、もう一人の人影――重厚な大剣を担いだ、不敵な笑みを浮かべる女騎士の姿もあった。
「……遅かったじゃないですか、お嬢様。待ちくたびれましたよ」
「ごめんなさい、ザラ。準備に手間取っちゃって。……でも、ここからは私の時間よ」
ノクティアが指先を掲げると、周囲に浮遊する硝子の破片が、一斉に敵意を持ってグリスへと矛先を向けた。
夜の王宮を舞台にした、雷帝と童話の姫との決戦。
その火蓋が、今、切って落とされた。
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