179話「奔る稲光」
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数時間前までの静謐な喪失感から一転して、熱病のような混乱が、王都の端の端まで満ちていく
「"髪長姫"が崩御した」という衝撃的な報せの直後に、「実は生存している」「いや、やはり死んでいる」という矛盾した情報が、出所不明の噂として街の路地裏から貴族の寝室までを駆け巡っている。
情報の価値が暴落し、真実が霧の中に消えていくその光景を、反"姫"派の拠点である屋敷のテラスから眺め、カノンは愉快そうに肩を揺らした。
「ふふっ、あはは! ……いやぁ、してやられたねえ。これであたしたちは、わざわざあんな高い塔に乗り込んで、自分の目で確認しなきゃいけなくなったわけだ」
手にした安酒の瓶を弄びながら、彼女は楽しげに独白する。
その背後で、夜の闇よりもなお重苦しい圧力を放ちながら、巨躯の男が低く唸った。
「馬鹿を言うな。……面倒になっただけだ。本来ならば、今夜のセレモニーの最中に、外から一発、最大出力の落雷を叩き落としてやるだけで済んだものを」
"雷帝"グリス。その分厚い右腕に装着された"ミョルニル"のガントレットからは、主の苛立ちに呼応するように、パチパチと青白い火花が漏れ出している。
「そ〜〜〜かな〜〜〜? あのバケモノロング女、そんなんじゃ死なないよぉ。あいつ、昔っからしぶといんだから、もう」
カノンの言葉には、単なる敵対者への評価を超えた、ひどく生々しい実感が籠もっていた。
グリスはその言葉を聞き逃さなかった。彼は鋭い眼光を、傍らの黒髪の女へと向ける。
「……前から思っていたのだがな、カノン。貴様、あの髪長姫のことをよく知っているようだが、一体どんな間柄だ? ただの暗殺対象を評するにしては、含みがありすぎる」
「んん〜〜〜? 何のことぉ? 単なる知り合いだよ、ホント。ちょっとばかり、腐れ縁が長いだけのね」
「腐れ縁、か。そいつを断ち切るのに、未練はないのか?」
「無いよ、無い。あたしたちにはなぁんにも無い。あんたもそうでしょ?」
カノンは振り返らず、空になった瓶をテラスの淵で弄ぶ。
その横顔には、いつもの享楽的な笑みが貼り付いていたが、立ち上る殺気の質が、一瞬で"生物"から"凶器"へと変貌した。
「…………」
グリスは、これ以上の追及を止めた。
戦場を幾度となく潜り抜けてきた彼の本能が警鐘を鳴らしていた。これ以上、彼女の過去に踏み込めば、今この場で致命的な"命の取り合い"が始まる。それは、今の彼にとって無益な消耗でしかなかった。
彼は視線を、夜の街の中央に聳え立つ"星の塔"へと戻した。
王国の象徴であり、"髪長姫"の聖域。
「あの塔は……落雷一発程度では、落ちぬだろうな」
「あーったりまえじゃーん。あの女の髪……魔法が、城壁の隙間から礎石の奥まで、幾重にも幾重にも張り巡らされてるんだからさ。たぶん、あの塔だけで辺境の頑強な砦より硬いんじゃない? 物理法則すら、あの中じゃあの子の味方だよ」
「ふっ、ならば、攻略する方法は一つだけだな。……城門を破り、最上階まで這い上がり、その首を直に掴んで捻り切る。兵法としては下策だが、儂の性分には合っている」
グリスはガントレットの紐を締め直すと、テラスの欄干へと足をかけた。それに応じるように、階下でも対"姫"装甲を纏った刺客たちが、出撃準備を整える。
鋼鉄の戦列。鎧が擦れ合う音が、戦いの始まりを告げた。
「いーってらっさーい。精々腰には気をつけなよぉ、おじいちゃん。無理してギックリなんてやっちゃったら、笑えないからね」
「いいのか? 貴様が出るまでもなく、儂一人ですべてを終わらせてしまうぞ。……"姫"を殺すという遊戯、参加せずに終わっても後悔せぬか?」
不敵に笑うグリスに対し、カノンもまた、月光を反射したナイフのような邪悪な笑みを返した。
「できるもんならやってみろよ、クソジジイ。あたしにゃ、あたしなりの喧嘩のやり方があるんだっつーの。……あんたが正面から暴れてくれるなら、あたしの"遊び"も捗るしね」
「……ふん、相変わらず食えぬやつよ。では、先に行くぞ」
その言葉を最後に、グリスは迷いなく夜の虚空へと身を躍らせた。
ドォォォォォン!!
着地と同時に、石畳を爆砕するような重低音が響き、その地点から一筋の雷光が王宮へと向かって走り出す。
巨躯からは想像もつかない俊敏さ。それはまさに、地を駆ける雷罰そのものだった。
テラスに残されたカノンは、遠ざかる雷鳴の軌跡を眺めながら、指先で自分の黒髪を弄ぶ。
「あーあ、行っちゃった。あの爺さん、べらぼうに強いから、本当に全部一人で食っちゃうかもなぁ」
そう口にしながらも、彼女には確信めいたものがあった。
今、各地で活躍していると噂の"シンデレラ"。彼女なら、きっと。
「……さぁて。ノクティア、今回はどんなふうに書き換えるのかな? 楽しみにしてるよ。……あたしの期待、裏切らないでよね?」
そんな彼女の言葉をよそに、"雷帝"は駆ける。
目標は、王宮内。
そこに天を衝くように聳え立つ、"星の塔"だ――。
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