176話「ひっくり返された盤面」
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王都ヴァルゴの外れ。かつては由緒正しい家柄を誇ったであろう貴族の屋敷が、今は反"姫"派という不穏な結社の揺り籠となっていた。
その高いテラスに腰掛け、カノンは夜風に黒髪を遊ばせながら、眼下に広がる街並みを眺めていた。
(……この街も、変わったものね)
彼女が知る昔のヴァルゴは、もっと閉鎖的で、どこか静止した時間の中にいた。けれど今、エリダヌス連邦との貿易が正常化し、商人の馬車が行き交う夜の街は、不規則な活気に満ちている。
物語の主役たちが入れ替わり、背景の色彩が塗り替えられても、街という生き物は呼吸を止めない。それが、少しだけ可笑しく、そしてひどく寂しかった。
カノンは手元の安酒を呷り、空になった瓶をテラスの淵に置いた。
その静寂を切り裂くように、背後の重厚な扉が荒々しく開け放たれる。
「お、おい、女! どこにいる、貴様!」
現れたのは、この屋敷の主であり、今回の暗殺計画のスポンサーの一人でもある中年貴族だった。高価な絹の寝巻きを乱し、額に脂汗を浮かべた彼は、カノンを見つけるなり血相を変えて詰め寄ってくる。
「なあに? おじさん。あたし今、夜景を見ながら超センチメンタルに浸ってたんだけどぉ? 邪魔しないでほしいな」
「センチメンタルも何もかもあるか! 貴様、あのグラスベル令嬢の侍女……あの小娘の誘拐、失敗したようだな! 報告によれば、警護の騎士はおろか、グラスベル嬢本人すら仕留め損なったというではないか!」
「ああ、その件ね……。ま、ノクティアならあのくらい切り抜けるでしょ。あの子、ああ見えて結構しぶといし」
「なんだと? 貴様、まさか失敗すると分かっていて、私の兵を使い潰したのか……?」
貴族は顔を真っ赤にし、カノンを睨みつけた。その拳は、恐怖と怒りで小刻みに震えている。
「ふざけるなよ! どんな依頼も完遂する、腕が立つ暗殺者だと聞いたからこそ、高い金を払って貴様を雇ったのだ。それとも何か、巷に流れる評判は、すべて偽り――」
「――よぉく口が回るねえ、おじさん!」
カノンは瞬時にテラスの淵から降り、影のように貴族の懐へと潜り込んだ。
反射的にのけぞる貴族。カノンの瞳には、月光を反射したナイフのような鋭い光が宿っている。
「やっぱいいもん食ってると、舌も元気なのかなぁ! たまにゃ安酒でも煽るといいよ。舌ってのはつけあがるとろくなこと言わないからね。……なーんて、貴族の旦那にゃ、無縁の話かぁ!」
「く……っ……」
気圧され、言葉を詰まらせる貴族。カノンはその怯えた顔を至近距離で覗き込み、ふと思い立ったように問いかけた。
「ね、一つ聞きたかったんだけどさ。……なんでおじさんたちは、そんなに"姫"が怖いの?」
「き、決まっているだろう、そんなもの! 奴らは……あいつらは、人の皮を被った怪物だからだ! 人知を超えた力を振るい、我々の法も理屈も通用しない不条理! それが側にいるだけで、我々の安寧は脅かされるのだ!」
「あはは、抽象的だねえ。そういうんじゃなくてさ、もっと具体例具体例。誰が何をされた、とかさ」
「言うまでもない! 奴らを排斥せねば、人による、人のための世は築けんのだ! 我々がこの国を導くために、あのような不確定要素は必要ない!」
「……それだけ?」
「それだけだ、何が悪い!」
カノンは一瞬、きょとんとした顔をしたあと、堪えきれないといった様子で空虚な笑みをこぼした。
(……ああ。やっぱり、そうなんだ)
かつてこの国で起った、血塗られたクーデター。大臣を二人殺し、王都を恐怖のどん底に叩き落とした、あの憎悪の一幕。それすらも、代替わりを重ねるごとに薄れ、今や単なる"政治的障害への忌避感"へと成り下がっている。
目の前の男たちは、自分たちの先祖が何に怯え、何を失ったのかさえ正確に理解していない。
「……大丈夫大丈夫、万事、ぜーんぶ順調だからさ。何もかも、あたしの想定をはみ出てないよぉ」
カノンは適当に貴族の肩を叩き、再び夜空を見上げた。
けれど、その胸の奥には、風穴が開いたような寂しさが広がっていた。
(でも、これじゃ終わんないよね? ノクティア。あなたは……そんな退屈な結末、選ばないでしょ?)
彼女がそう思い浮かべた、まさにその瞬間だった。
階下からバタバタと、先ほどの貴族よりもさらに騒がしい足音が響いてきた。
「なんだ、騒がしい! 少しは静かにできないのか――」
貴族が怒鳴り声を上げようとしたが、飛び込んできた従者の形相を見て、その言葉は喉に張り付いた。
「――た、大変です、旦那様! 先ほど、城の密偵より緊急の報せが……!」
「どうした、王がこちらの動きに気付きでもしたか!?」
「いいえ、それが……その……!」
従者は震える手で、一枚の書状を差し出した。
「――"髪長姫"アルフェッカ様が、先ほど亡くなられたそうです! 死因は不明……ですが、城内は現在、大パニックに陥っております!」
「なんだと……!? 亡くなった……だと?」
貴族の顔から血の気が引き、呆然と立ち尽くした。自分たちが仕掛ける前に、標的が勝手に死んだ。それは勝利を意味するはずだが、あまりの唐突さに、彼は喜ぶことさえ忘れている。
だが。
その後ろで、カノンだけは違った。
(……あはは! そうくるか、ノクティア・グラスベル!)
確信した。
あの子は、ゲーム盤面をひっくり返しに来たのだ。後手に回るのではなく、後手に回らざるを得ない状況のまま、無理やり先手を打ちに来た。
暗殺者が殺しに来る前に、ターゲットが死んでいる。
であれば、これ以上の"暗殺"は成立しない。そして、死体が本物か偽物か、あるいはどんな仕掛けがあるのか――確認する必要に駆られているのは、こちらの方だ。
「……いいねえ、ノクティア。それじゃあそろそろ、会敵と行こうか」
ノクティアという"プレイヤー"が、ついに本気で牙を剥いてきた。
カノンは沸き立つような高揚感を抑えきれず、瞳に狂気的な悦びを宿しながら、口角を、僅かに上げるのだった。
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