173話「叱咤の呪い」
「――しっかりしなさい、ノクティア!」
鼓膜を劈くような鋭い叫びが、私の思考の霧を強引に晴らした。
視界の端で、私の肩に乗っていた小さなアルフェッカが跳躍するのが見えた。彼女の透き通るような銀色の髪が、意志を持つ生き物のように急激に伸長し、私の喉元へと迫っていた刺客の白刃に絡みつく。
――キィィィィィィィン!!
金属同士が擦れるような不快な音が響き、刃の軌道がわずかに逸れた。けれど、分体である彼女の力だけでは、大人の男が全体重を乗せた刺突を完全に防ぎきることはできない。
「くっ……重いわね……!」
アルフェッカの小さな顔が苦悶に歪む。
逸れたはずの剣先が、再び私の方へと向き直る。死の予感に全身の毛穴が逆立ち、私はまたしても無様に目を閉じることしかできなかった。
――ドサッ、という鈍い衝撃音。
想像していた痛みは来なかった。代わりに鼻を突いたのは、鉄錆のような、生暖かい血の匂い。
「……あ……」
恐る恐る目を開けると、そこには見覚えのある、けれど今までで一番頼もしく、そして痛々しい背中があった。
「……ッ、はぁ、はぁ……間に合った……」
――ザラだった。
彼女は私の前に割り込み、剥き出しの左肩で刺客の剣を受けていた。肉を裂き、骨を削る音が私の耳にまで届く。けれど、彼女は表情一つ変えず、右手に握った大剣を横なぎに振るった。
「がはっ……!?」
至近距離で放たれたその一撃は、刺客の胸部装甲を紙細工のようにひしゃげさせ、男を広場の壁際まで吹き飛ばした。
ザラは追撃の手を緩めず、残る刺客たちをその鬼気迫る剣幕で牽制する。
「ザラ! あなた、肩が……!」
「……私のことはいいのです。お怪我はありませんか?」
彼女の声は、どこまでも事務的で冷徹だった。けれど、その左肩からはドクドクと鮮血が溢れ出し、彼女の重厚な装備を赤く染めていく。
「ない、けど……あなた、どうして……!? 私を置いて、逃げてもよかったはずなのに!」
私の問いにザラが答えようとした、その時だった。
路地の入り口から、幾多の鎧が擦れ合う音が爆流のように流れ込んできた。
「近衛騎士団だ! 各員、展開せよ! ノクティア様、ご無事ですか!」
松明の光と、規律正しい兵士たちの怒号。
加勢が現れたことを察知した刺客たちは、互いに目配せをすると、蜘蛛の子を散らすようにして闇の奥へと消えていった。
静寂が戻った広場で、私はよろめきながらも立ち上がり、真っ先に中央の台座へと駆け寄った。
「シャウル! シャウル、しっかりして!」
縄を硝子の破片――魔法ではなく、ただの物理的な破片として拾ったものだ――で切り、彼女を抱きかかえる。シャウルは依然として深い眠りの中にあり、頬は少し冷たかったけれど、規則正しい寝息に胸を撫で下ろした。
「……シャウル様もご無事のようですね。なら、よかったです」
背後で、ザラがぽつりと呟いた。
彼女は大剣を鞘に収め、止まらない血を右手で押さえながら、ふらりと出口の方へ背を向ける。その背中があまりに孤独で、そして突き放すようだったので、私は思わず声を張り上げた。
「――待って、ザラ! どうしてあなた、さっき私を助けてくれたの……?」
彼女の歩みが止まる。
重苦しい沈黙。遠くで響く銀髪祭の音楽が、この最底辺の広場には届かない呪いのように感じられた。
「……それが、私の仕事だからです。護衛対象を守る。契約に含まれています」
「……それでも、自分の身を盾にするなんて……! 私が死んでしまった方が、あなたにとっては都合がいいはずでしょ!? 妹の仇を討つ手間が省けるんだから!」
私の叫びが、彼女の逆鱗に触れたのが分かった。
ザラは猛然と振り返り、肩の負傷など忘れたかのような速さで私に詰め寄ってきた。
「――っ!?」
私の鼻先数センチまで迫った彼女の瞳には、かつてないほどの激しい情念が渦巻いていた。
彼女は私の襟元を掴まんばかりの勢いで、剥き出しの殺意と、それ以上の何かをぶつけてきた。
「勘違いしないでください、お嬢様」
変質の気配。彼女の事務的で無機質な言葉が、剥き出しの、熱を持ったものへと変わる。
「あたしはあなたが嫌いだ。反吐が出るほど憎んでもいる。……でも、あなたは。あなたが生きている今のこの一秒は、スピカが、あの子が命を懸けて守り抜いた結果なんだ」
ザラの震える声が、私の胸に重く突き刺さる。
「こんなところで、名もなき刺客なんかに殺されるなんて、あたしが許さない。あなたは、あの子が遺した唯一の証明なんだ。……あなたはいつか、あたしがこの手で殺す。それまで、勝手に死ぬなんて絶対に許さない。……いいですか、分かったら二度と無様に這いつくばらないでください!」
そう言い放った彼女は、憑き物が落ちたように視線を外した。
「……それだけです」
と、いつもの冷淡な声に戻って短く残すと、彼女はふらふらとした足取りで、近衛騎士団の誘導する方へと去っていった。
その傷だらけの背中は、もはや拒絶ではなく、呪いのような"期待"を背負わされた私の罪そのものに見えた。
私はその場に立ち尽くし、彼女が消えた路地の先をいつまでも見つめていた。
肩の上で、アルフェッカの分体がふう、と小さく溜息を吐き、穏やかな微笑を浮かべた。
「……信頼されてるわね、あなた」
「私が? 冗談はやめてよ。今ので分かったでしょう、彼女は私を殺す機会を狙ってるだけよ」
「いいえ。あれは、信頼よ。……不器用な、死神の信頼ね」
アルフェッカは私の髪を一房、愛おしそうに撫でた。
「あなたはこんなところで死んでいい人間じゃない、って。スピカが命を懸けるに値する人間なのだと……彼女はそう信じようとしているのよ。加えて、叱咤でもあるわね。妹が守った命だ、それを有効に使え……と」
「……呪い、そのものね」
私は苦笑した。けれど、不思議と身体の震えは止まっていた。
私は眠り続けるシャウルを背負い、近衛騎士団の護衛を受けながら立ち上がる。
肩にはまだ、ザラの血の温かさが残っているような気がした。
やらなければならないことは山積みだ。
"銀髪祭"を無事に終わらせる。そのための策が上手くいくかは、これからが肝要なのだ。
自分の無力さに絶望している暇なんて、一秒も残されていなかった。
私は重い一歩を踏み出した。
西の空は真っ赤に染まり、間もなく夜が訪れようとしている。
懸案事項を全て頭の片隅に寄せて、私は沈みゆく太陽に向かって、力強く歩き出すのだった。




