172話「日暮れ前、現実」
アルフェッカの銀糸が指し示した場所は、華やかな王都の地図からは意図的に抹消されたかのような、救いようのない澱みの中だった。
迷路のように複雑に入り組んだ路地を抜けるたび、空気は湿り気を帯び、ドブ川の腐臭とカビの臭いが鼻を突くようになる。
角を曲がるごとに、壁際に座り込んだ傷痍軍人や、うつろな瞳の浮浪者、そして獲物を狙うハイエナのような目をしたストリートチルドレンたちが、私たちの通過を無言で見送った。
「……まだあったのね。お城のすぐ近くに、こんな場所が……」
肩の上で、アルフェッカの分体が小さな声を漏らす。全識の彼女ですら、自身の足元に広がるこの"影"の深さまでは把握しきれていなかったのかもしれない。
やがて、路地の突き当たりに、不自然に開けた広場が現れた。
かつては噴水でもあったのだろうか。中央には崩れた石造りの台座があり、その場所に、彼女はいた。
「シャウル!!」
椅子に縛り付けられ、ぐったりと首を垂らしている桃色の髪。
私はなりふり構わず駆け寄ろうとした。だが、その背をザラの鋼のような掌が、強い力で掴み、引き止めた。
「――っ、危ない! 下がってください!」
直後、上空から黒い影が複数、猛禽のような鋭さで降下してきた。
ガシャン、と重厚な金属音が石畳に響く。現れたのは、昨日中庭で見たものと同じ、対"姫"装甲を纏った刺客たちだった。総勢八人。彼らは流れるような動作で、私たちを包囲するように展開する。
「……まったく、こうなると思ってましたよ。これほど分かりやすい餌をぶら下げて、何も仕掛けてこないはずがない」
ザラは忌々しげに吐き捨てると、携えた巨剣をゆっくりと引き抜いた。肉厚の刃が、鈍い陽光を反射してぎらりと光る。
「ノクティア様。数が多い、そちらを何人かお願いできますか。……背後は任せますよ」
ザラが、事もなげに私に背中を向けた。
共闘の提案。騎士として、"姫"である私の戦力を勘定に入れてくれたのだろう。
だが、その言葉は今の私にとって、どんな毒よりも鋭く胸に突き刺さる。
――今の私は、それに答えることが、できない。
今の私には、彼女の期待に応えられるような力が、ない。
私の固有魔法――"シンデレラ"の権能は、日没から零時までの間しかその真価を発揮できない。今はまだ、太陽が西に傾き始めたばかりの昼下がり。
今の私は、ただの重いドレスを纏った、非力な貴族の令嬢でしかないのだ。
けれど、そんな弱音を吐いている暇はなかった。
「シッ!!」
ザラが鋭い呼気と共に踏み込んだ。
その体躯からは想像もつかない、爆発的な質量攻撃。
刺客の一人が構えた鋼鉄の槍を、ザラは避けることすらしない。正面から大剣を叩きつけ、槍の穂先ごと男の腕を粉砕する。
バキィッ、という嫌な音が広場に響き、対"姫"装甲の破片が火花を散らして舞った。
左右から同時に襲いかかる剣士たちに対し、ザラは独楽のように体を回転させた。
遠心力を乗せた一撃が、右の男の側頭部を捉え、装甲ごと頭蓋を揺らす。そのまま回転を止めず、左の男の鳩尾へ、剣の腹を文字通り叩きつけた。
衝撃波だけで周囲の瓦礫が吹き飛ぶ。
「ぐっ、この女……人間か……!?」
刺客の一人が怯えを口にするが、ザラの追撃は止まらない。
彼女の戦いは、もはや剣術というよりは破砕の儀式だった。
踏み込むたびに石畳が砕け、剣を振るうたびに真空の刃が空気を裂く。
背後から放たれた弩の矢を、彼女は振り返りもせずに剣身で弾き飛ばし、その反動を利用して、矢を放った狙撃手へと肉薄する。
まさに鬼神。
一人で十人近い精鋭を圧倒するザラの武勇は、見る者を畏怖させるに十分なものだった。
だが、その守護の壁には、一つだけ致命的な欠陥があった。
背を任された私が、何一つ、自分の身を守る手段を持っていないということだ。
「……そこの、女ぁッ!!」
ザラの猛攻を掻いくぐった一人の刺客が、私へと狙いを定めた。
男が手にするのは、毒々しく光る短刀。
来る。
頭では分かっている。避けるべき方向も、カウンターを当てるべきタイミングも、現代で培った知識と、これまでの経験が告げている。
だが、身体が動かない。
魔法というブーストを失った私の肉体は、ただの少女のそれだ。
全力で地面を蹴ろうとしても、重いスカートが脚に絡みつき、心臓が早鐘を打って肺を圧迫する。
「……あ……っ」
私はなりふり構わず、地面を這うようにしてその場を転がった。
頬を鋭い風が掠める。髪の毛が数本、切り飛ばされたのが分かった。
「ノクティア様!? 何をしているのです、早く魔法を――!」
ザラが悲鳴に近い声を上げる。彼女は私を助けようと無理な体勢で向きを変えたが、その隙を逃さず、他の刺客たちが彼女を囲い込み、足止めを図る。
惨めだった。
"姫"として祭り上げられ、王国の運命を背負っているつもりで、貴族や大臣たちに大口を叩いたというのに。
今の私は、たった一人の暴漢から逃げることすらままならない。
魔力の通わない指先は冷たく震え、虚空を掴む。
シャウルを助けたい。
ザラの負担を減らしたい。
刺客の影に怯えずに立ち向かいたい。
けれど、西に沈みゆく太陽は、無慈悲に私の"無力な時間"を照らし続ける。
迫りくる刺客の足音。
私を呼ぶザラの怒声。
遠くで聞こえる銀髪祭の、楽しげな、何も知らない人々の笑い声。
それらすべてが、今の私を嘲笑っているかのように感じられた。
何が"姫"だ。
何が主人公だ。
私は、ただの子供だ。
力を貸してくれる"物語"がなければ、何一つ守ることも、成し遂げることもできない、ちっぽけな――。
石畳の冷たさが、這いつくばった掌から全身に伝わっていく。
今の彼女は、どうしようもないくらいに無力だった――。




