第72話 黄泉雲(1)
黒陽の国アザレアの森にはいくつかの特徴がある。
くねくねと折れ曲がった独特な木々に、ところどころに咲く赤いバラ。そして無数に点在している小さな沼地。
もともと山や丘の傾斜が多い土地であるため、兵士たちが整備した街道を除けば、馬や獣での移動は難しく、人が住むにも向かない。しかしそれは同時に、人里と折り合いのつかない者たちが身を潜めるには、とても都合のよい場所でもあるということだ。
アザレア国内には法律で禁止された呪術を扱う者や、呪いを取り込み魔女と化した者たちが少なからずいる。そういった者たちや人狼のように墜魔となった者たちは、自ら好んでこういった沼地に身を潜め、ひそかに生活を続けていた。
「カウル、右だ!」
アベルの声を聞き、咄嗟に身を屈ませる。鞭のようにしなる何かが高速で頭上を通過していった。
すかさず剣を切り返すカウル。相手は飛びのいたものの、回避は間に合わずその腹部には大きな裂傷が出来ていた。黒い血が飛び散り草木を汚す。カウルはそっと剣を構え直し、相手を見据えた。
骸骨のようにやせ細った頬に、片方だけ黄色く変色した眼球。傭兵のような服装を纏った彼の右手には刃こぼれの酷い直剣が、右手は爬虫類のしっぽのように尖った触手のような腕が生えていた。
まだ人間のように見える片目には怯えが見えたが、その口からは意味の分からない声が漏れ続け、視線は定まらない。人の記憶や経験と受肉した呪いによる影響が拮抗しているのだろう。
「大丈夫か」
背後の土を滑り降り、アベルが横に立つ。カウルは頷きながら、
「中途半端に剣術を使ってくる分、動きが読みづらいな」
「墜魔は禍獣のなりかけだからな。進行状態にもよるが、人の意識が残っている間は、当然その技術を行使できる。もっともあの様子では、とっくにまともな人格は喪失しているようだが」
墜魔が触手のような腕を振り上げ飛び掛かってくる。アベルはそれを潜り抜けると、手に持った槍で一気に彼の腹を突いた。それほど深い傷では無かったものの、アベルの槍には死門の呪いが付与されている。傷口から黒い痣のようなものが徐々に広がり、その肉の機能を停止させていった。
「今だ」
アベルの声と同時にカウルが前に飛び出し、剣を横一文字に凪ぐ。傷の呪いの効果が乗った刃の切れ味は凄まじく、一太刀で墜魔の首を切断した。
倒れる墜魔の死体。
カウルは剣を鞘にしまい、ほっと一息ついた。
アベルは身を屈ませると、その墜魔の首を拾い、布の中へと丁寧に包み込んだ。
「これで依頼は完了だ。さっさと戻ろう」
「ああ」
もう人に戻れないことはわかっているのに、墜魔を狩るのは禍獣と比べるとどうしても後味が悪い。その心情を察したのか、通り過ぎざまにアベルがカウルの肩を軽く叩いた。
森の中にある小さな小屋。そこの前に異形な形をした人間が立っていた。
折れ曲がった背中に、足よりも長い腕。全身を薄茶色の布で覆っているものの、本来首があるはずの場所の横には何やらでっぱりがあり布を膨らませている。その顔は雪のように青白く髪の毛どころか眉もない。目は大きく見開かれているものの、眼球の中に黒目は存在せず、ただ白い肉だけが前を見据えていた。
彼女は馬に乗って戻ってきたカウルたちを見つけると、心配したように声を上げた。
「おお戻ったか。して、成果は?」
馬から降りたアベルが布に包んだ墜魔の首を渡す。彼女はすぐに中を覗き込み顔を確認した。
「おお……モフリグ。間違いない。彼だ。よくやってくれた。本当に感謝する」
「あなたの言う通り、既に手遅れでした。残念です」
カウルは彼女をいたわる様に声をかけた。
「なに、礼を言いたいのはこちらだ。私の実験に巻き込まれ、墜魔と化した弟子をお前たちは救ってくれたのだ。本当に感謝する」
魔女は墜魔の死体を抱きしめ、小さな涙を流した。
アベルはその様子をじっと観察しながら、
「君の体は大丈夫か。呪いの進行は止まっているようだが、肉体の変異は抑えきれていないんだ。いつ不安定化してもおかしくはない」
「ああ心配ない。これは元々さ。魔女化初期の失敗だよ。人の目を恐れ森に隠れてからもう三年。呪いはずっと安定している。私は薬草学が専攻で直接的な争いは苦手だが、呪いの扱いは心得ているからな。今更禍獣化するようなことはない」
魔女は墜魔の首をそっと机の上に置いた。
「報酬だ。急な申し出にも関わらず受けてくれたからな。少し割り増ししておいた。ありがとう」
食糧確保のため鹿を追って入った森で道に迷い、たまたま見つけた家屋で初めてこの魔女を目にしたときは、禍獣かと勘違いして剣を抜きそうになった。それを止めたのは、彼女が泣いていたのとアベルがカウルの手を引き留めたからだ。
カウルが黙っていると、アベルが手を出し、そっと報酬の金を受け取った。
「君はこれからどうするんだ?」
「何も……こんな外見じゃあどこにも行けぬからな。ひっそりとここで暮らすさ。いや、もっと山奥にでも引っ越すべきか。また誰かが間違って私の秘薬を飲んで、同じような事件が起きるのはこりごりだ」
「――……そうか」
それだけを短く答え、アベルは背を向けた。もうこれ以上用は無いとでもいうように、自分の馬にまたがる。カウルも彼に続くようにティアゴの上に乗った。
魔女は最後にこちらを見ると、
「もしまた会うことがあれば、いつでも歓迎するよ。まあそんなことは無いかもしれんがね」
「どうかな。人生はわからないものだ」
軽く笑みを返し馬を走らせるアベル。カウルは彼に続きながら、一度だけ魔女の小屋を振り返った。
「なあ、あの人、本当に無実だったと思うか」
「どうだろうな。だが、近隣の村々で人が消えるような噂は聞かなかったし、小屋に血の匂いも無かった。悪意ある魔女が住む場所の近くには、必ずそういった兆候が出る。それに、どのみち暴走した墜魔を放っておくわけにもいかなかっただろう。
……魔女だからといって全員が悪人というわけではない。純粋に呪いの研究に没頭した結果、魔女化という手段を取ることは、呪術師にはよくあることだ。無論、中には本当に極悪人もいるがな」
アベルは前を向いたまま答えた。
「それよりもカウル。思ったよりも多くの報酬をもらえた。これで王都ノアブレイズまでは何とかなるんじゃないか」
「ああ。大丈夫だと思う。ただ街道からは逸れてるからな。安全に行くなら道を引き返す必要があるけど、あまり時間の無駄は作りたくない」
「そうだな。方向はわかっているんだ。このまま進もう」
最低でも数百年以上生きているアベルは、まだ街道が整備される前の時代を知っている。アベルにとってはきっと、整備された街道を歩く方が不自然なもののように思えるのかもしれない。
それからいくつか山を超え、数日が経過した。
灰夜の国ノアブレイズ東部の街、ルシード街の災禍教寺院で聞いた情報によると、死門派の若い葬使と呼ばれる代表が、一部の信徒を連れて死門停滞事件の直前から姿を消したらしい。彼らはどうも黒陽の国アザレアの王都地下にある、奈落街と呼ばれる無法地域を目指していたとのことで、カウルたちはその葬使が刻呪を解き放ち、死門を停滞させた偽祈祷師と関わり合いがあるのではと疑い、その後を追っていた。
既にアザレアとグレムリアの国境は超えていたが、王都ノアブレイズに着くまではまだ数週間はかかりそうだ。目の前に急な傾斜が現れたため、カウルはティアゴから降りて彼が上るのを手伝った。
アザレアは起伏の激しい道が多い分、こうして度々馬から下りざるを得ない状況が発生する。そしてそういったときに足を滑らせ、底なし沼に引っかかるというのが、よくある事故の典型だった。
自分の馬のお尻を押していたアベルは、滑った馬に押され崖から落ちそうになった。間一髪で何とか踏みとどまるも、真下に見えた沼を見て額の汗をぬぐう。
「こういう時、不死身の方が厄介だな。底なし沼に落ちても俺は死なないが、下手をしたら一生泥の中でもがき続けることになりかねない。気を付けなければ」
「底なし沼だって本当に底が無いわけじゃないだろ。底を伝って端まで行けば、岩や土を使って上がってこれるんじゃないか」
「いや。沼の水は泥や砂利で重さが増しているからな。浅い場所ならともかく、深い場所ならよほどの筋力が無い限り難しいだろう」
カウルは冗談のつもりで言ったのだが、アベルは大まじめにそう回答した。
初めて会った時は、何を考えているかわからない変な奴としか思えなかったが、大峡谷で“老人”を倒し、お互いの秘密を打ち明けあってからは、随分と距離が縮まった。アベルは少しだけ感情表現が豊かになり、こちらに心を許してくれていると感じる。師であるイーダが死んでからずっと一人だったカウルは、彼とのこの旅に楽しさまで感じ始めていた。
岩場を超え山を下りると、狭い道に出た。主要な街道ほどではないものの、土は何度も踏みつけられたように平たくなり、整備されている。
「近くに村か街があるようだな。少し休むか?」
「そうだな。できればそうしたい」
アベルには食事も睡眠も必要無いが、禍獣や猛獣が徘徊する山の中で野宿を繰り返す生活は、カウルに疲労を蓄積させていた。風呂に入りたかったこともあり、期待を込めてそう返す。
道は山の間に沿って伸びているようで、ちょうど王都ノアブレイズの方向へと続いている。整備された道であれば、定期的に兵士や黒煙騎士が見回りをしているはずだから、禍獣に遭遇する機会も減るだろう。
そう思い、少しだけ気を抜いて進んでいたところで、カウルは道の先に奇妙なものを見つけた。
直立に立ったひし形のようなものが、ひょこひょこと左右に揺れながら動いている。あれは一体なんだろうか。ティアゴが嫌がっていないから禍獣ではないようだが、あまりに目を引く光景だ。
近づいていくにつれ段々と形が見えてくると、それが棺であることが分かった。深緑色の服を着た旅人のような男が、背に棺を担ぎ歩いている。
カウルたちが後ろまで来たところで、彼は馬の足音に気が付き振り返った。
「おおすまんね。今退くよ。ちょっと待ってくれ」
棺を抱え直し、狭い道の端へと移動する。無精ひげに太い眉。よく見ると腰には剣を、胸や腕には鎧が着こまれており、退魔師のようないでたちをしていた。
「すごい荷物だな。ご家族か」
全く遠慮することなく聞くアベル。
「ああいや、友人だよ。大事な人なんだ」
「遺族の元へ届ける途中なのか?」
「まあそんな感じかね。……こんな時期に旅人とは珍しいな。お前さんたちは退魔師か何かか?」
棺の男はカウルたちの恰好を見てそう言った。
「ええ。仕事を探して王都ノアブレイズへ向かっている途中なんです。慣れない土地なもので、道は合ってますか?」
相手を安心させるように穏やかな表情を作りながら、カウルが聞いた。
「まあ、あまり主要な街道じゃあないが、方向は合ってるよ。けれど、お前さんたち、よくこんな時期にここを歩いているな」
「どういうことですか?」
「知らないのか。今は九大災禍、黄泉雲の接近時期なんだ。あと二~三日したら、ここら一帯はあれの影響下に入るぞ」
「黄泉雲?」
長い間森や山を移動していため、そういった情報を入手していなかった。九大災禍と聞いて、カウルは緊張感を高めた。
「確か死者を蘇らせる災禍でしたっけ?」
「そう。呪術の区分で死霊術というものを聞いたことがあるだろう? 要はあれと同じようなもんだ。ただし、その規模と効果が桁外れのな。
黄泉雲の効果範囲の下ではあらゆる死者が蘇り、徘徊を始める。死者は何度倒したところで復活し、黄泉雲に観測された時点の姿へと修復される。そしてもっとも厄介なのは、死んだ直後の死体だ。死んだ直後であれば肉体の腐敗はほとんど無く、生者と死者の見分けが付かない。しかも場合によっては生前の意識を持ち、自分が死者であると気がついていない場合すらある。
災禍によって蘇るということは、呪いである以上例外なく生者に対して敵意を持つ。親しい家族が、友人が、恋人が、自分が死んでいるとも知らないで無意識の内に襲い掛かって来るんだ。もし襲われたほうがその人物の死を知らなければほぼ間違いなく不意打ちを受けるだろうし、知っていたとしても知人に武器を向けられる者などそう多くはない。そうして殺されたものは黄泉雲に死体として認知され、倍々的に徘徊する死者は増えていく。黄泉雲の効果範囲から抜け出るまで」
カウルを怯えさせたかったのか、棺の男は実に流暢に黄泉雲の特性を説明した。
一般知識としては当然知っていたが、こうして改めて聞かされると実にえげつない災禍だ。直接的な殺傷力は死門の方が圧倒的に高いだろうが、死者を蘇らせるという現象は多くの人間を引き付けるだろう。いい意味でも悪い意味でも。
ちらりと男の棺に目を向ける。
「引き返すしかないってことですか? この近隣の人たちは、既に避難を?」
「いや、九大災禍はどういうわけか、天候に関わるものが多い。基本的には地下に逃れれば影響は少ないんだ。この近辺の者たちは、祝福地の地下に避難所を作ることで黄泉雲から逃れているらしい。姿さえ見えなければ、奴らだってわざわざ祝福地の下にまで入ってはこないからな。
それに引き返すにしても、この辺りは入り組んだ山ばかり。きっと間に合わない。……たまたま知り合った縁だ。ちょうど俺も向かっていたところだし、この近くの村へ案内してやるよ」
棺を背負った退魔師らしき男など普通に考えれば怪しさしかなかったが、何となく、嘘はついていないと直感で感じられた。
どのみち、食料も減り狩りに苦労してきた頃合いだ。村があるのなら買い足しを行える。カウルは一旦、男のことを信じることにした。
「カウルです。向こうはアベル」
馬から降り、手を伸ばす。
「ああ。宜しく。俺は――ジョセフだ」
ごつく力強い腕。何度も剣を振り鍛えてきたような力強さが感じられた。
前を進むジョセフを見て、カウルは先ほどの彼の台詞を思い出した。こんな時期によくここを歩いているなと、彼はそう言った。最初は気が付かなかったが、今思えばそれは彼自身も同じはずだ。
あの背に抱えている棺。きっと黄泉雲の来訪と無関係ではないのだろう。興味を引かれたものの、あまり個人の事情には関与するべきではないと考え、特に問い詰めたりはしなかった。
「カウル。ちょっといいか」
アベルが横に馬を並ばせ、耳打ちした。
「どうした?」
神妙な顔をしていたので、気を取り直して聞く。
「どうしてかはわからないが、君を呪った偽祈祷師は死門を停止させた。もしかしたら、黄泉雲にも同様の干渉を行う可能性がある。用心しておいた方がいいかもしれない」
確かに、その可能性はありえる。わざわざ刻呪を解放してまであんな真似をしたのだ。その他の九大災禍にも同様の事態を引き起こすかもしれないという懸念は、大いに納得できた。
「ルシード街で奈落街の噂を耳にしたけど、運が良ければその前にあいつと遭遇できるかもしれないってことか。わかった。意識しておくよ」
アベルの助言はもっともだ。カウルは深く頷いた。
森を抜けると、赤茶色の土が広がる場所に出た。確か赤原と呼ばれている区域だ。グレムリア王都グレイラグーンの周辺ほどではないものの、それなりに広い荒野が広がっている。
「あそこだ。ご両人」
ジョセフが荒野にある村を指し示す。だがカウルが気になったのはそこではなかった。
村のさらに奥。遥か遠くの空が紫色に薄っすらと染まっている。あれが、
「九大災禍、黄泉雲…か」
感嘆するように、そうつぶやいた。




