第70話 魔女と奈落街(6)
物乞いの恰好をして奈落街の地べたに座り込むことしばらく。
そろそろ他の貧困民たちに怪しまれるかと不安になってきたところで、正門からマヌリスの姿が見えた。
黒と紫のドレスにふちの広い日除け帽子。二百歳を超えているはずなのに、どう見ても三十代後半から四十代前半のようにしか見えない一瞬で目を引かれる美しさ。考える間もなく彼女だとすぐにわかる。
――やはり奈落街に入ってきた。
ネメアは事前に用意していた造影ネズミを小袋から取り出し、目の前に置いた。マヌリスの気配を察知した造影ネズミはすぐに鼻をひくひくと動かし、彼女の方へ視線を向ける。
数人の物乞いたちがお金を恵んで貰おうとマヌリスへ近づいたが、彼女は慣れた様子でそれを無視し、通りを歩いていく。
ネメアは少し距離を置いてから立ち上がり、造影ネズミと共に尾行を始めた。
まだ朝だからか、営業を開始している店は少ない。マヌリスは闇市の中を通過すると、そのまま絞首台のある広場の方向へと向かっていった。
裏呪術師連盟の館へ行く気……?
そう思ったところで、造影ネズミが戸惑ったように動きを止めた。感覚を集中させると、妙なことにマヌリスの気配が複数に分散していた。路地に入る気配。広場へ向かう気配。西側にある地底湖の釣り堀へ向かう気配など、方向はバラバラだ。
いつの間にか視界に映っていたはずのマヌリスは姿を消し、見えなくなっている。
一体どうなっているのだろうか。ネメアは大いに混乱した。
造影ネズミの中にはマヌリスの髪の毛が仕込まれている。生体情報を元に感染呪術で追う以上、その気配を見逃すことは無いはずだ。ならば考えられる手段としては、分散した気配それぞれにマヌリスの血肉が仕込まれているということだろうか。造影ネズミのように擬態させた複数の影獣を使えば、確かに不可能では無いが。
こちらの尾行に気が付いている様子は無かった。恐らくこれは彼女なりの保険の一つだろう。上の街は人が多いため幻影呪術でごまかせたが、この時間の奈落街は閑散としていて目立ちやすい。そのための対策を取ったのだ。
どうする? 感染呪術の元となるマヌリスの髪の毛は一匹分しか用意していない。今回は諦めて出直すべきだろうか。いや、例え造影ネズミを増やしたところで、自分の今の実力では距離が離れると一匹ずつの感覚を正確に把握することは出来なくなる。無駄に集中力を削ぐだけだ。
奈落街の道の作りは十分に理解している。こうなったら一旦、重要拠点に向かう気配だけに絞り込んで後を追うしかない。
どこかの倉庫で裏取引やら実験やらをしている可能性も無いとは言い切れない。しかし今は考え込んでいる時間など無かった。ネメアは勘を頼りに裏呪術師連盟の館方向へ向かう気配へ当たりをつけ、それを追う。
館の前には数人の呪術師がたむろしており、ネメアは身を隠しながら様子をうかがったが、門の付近に到達したところで、突然存在を失ったようにマヌリスの気配がかき消えた。目標を見失った造影ネズミはその場に留まり、任務を終えたように停滞する。
はずれか――。
ネメアは落胆した。影獣を消すと同時に、仕込んでいた血肉を燃やし消滅させたのだろう。広場に大きな動物の姿は見られなかった。もしかしたら、虫など相当小さい影獣を使って気配を誘導していたのかもしれない。
マヌリスが奈落街に入ったことだけは事実のはずだ。今探し回ればまだきっとどこかにいるはず。
ネメアは造影ネズミの感覚を最大に強化して街の中を歩き回ったが、どれだけ探しても彼女の姿を見つけることは出来なかった。
その後、折を見ては、ネメアは幾度となくマヌリスの後を追った。
しかし毎回毎回煙に巻かれたようにその気配を見失ってしまい、どうしても行先を特定することは叶わなかった。朝が駄目ならば帰宅時はどうかと張っていても、複数の個所から気配が出現するため結局彼女の行先を特定するまでには至らない。
今更ながらに、呪術師としての練度の差を痛感する。まるで掌の上で遊ばれているような気分だった。
造影ネズミが混乱したように動きを止める。それを見て、ネメアはため息を漏らした。
また気配が消えた。これでもう何度目だろう。いい加減、諦めたくなってきた。
裏路地に置かれていた岩に腰を下ろし、項垂れる。
――何か根本的にやり方を変えなければ駄目かもしれない。
ネメアがマヌリスを尾行する手段として使ったのは、彼女から教わった造影呪術だ。教え元であるマヌリスなら、その特徴も弱点も知り尽くしている。造影呪術を使う限り、もしかしたら一生、彼女にはたどり着けないのではないだろうか。
悶々とした思いが頭を支配する。しばらくその場で悩み続けていると、砂利を擦るような音が目の前から聞こえた。
いつの間に接近してきたのだろうか。通路上に三人の男の姿があった。どれも恰幅のいい体形で、腰には刃物をぶら下げている。
「お嬢さん。どうしたの? こんなところで。悩み事なら相談に乗ろうか」
先頭に立っていた鼻に金属の輪をはめた男が、下卑た笑みを見せながら手を伸ばす。ネメアは反射的に立ち上がり、警戒態勢をとった。
「何ですか? 今忙しいので、あっちに行ってくれます?」
呪術師には見えない。奈落街に根城を構えたチンピラだろう。女一人だと思って、ちょっかいをかけてきたらしい。
「冷たいこと言わないでよ。お嬢さん。一人でこんなところにいたら危ないよぉ。俺たちが通りまで案内するからさ」
まるで逃げ道を塞ぐようにネメアを囲む男たち。このままではまずいと思ったネメアは、こっそり背中に隠した指で術式を描こうとしたものの、それよりも早く鼻輪の男がネメアの腕を掴んだ。
「あらら、呪術師か。歳的に塔の学徒かな。奈落街は立ち入り禁止だったはずだけど」
慣れていると、ネメアは感じた。呪術師の最大の弱点は呪いを放つまでに時間がかかることだ。術式を構築する前に妨害されてしまっては、呪術師は何も出来なくなってしまう。
「そんなに怯えないよ。俺たちお嬢さんと仲良くなりたいだけじゃないの」
ネメアが腕を振りほどこうとすると、強引にねじって持ち上げる。肌が引っ張られる痛みに、ネメアは小さな悲鳴を上げた。
勝ち誇った顔の男たちの顔を見て、思わず頭に血が上る。ネメアは歯を食いしばりながら、人差し指を男の手の甲にそっと当てた。
青白い閃光が走り、鼻輪の男が悲鳴を上げる。呪術を発動したわけではない。身に着けた指輪の呪いによる効果だった。
手を離した鼻輪の男を蹴り飛ばすも、残りの二人が表情を変えて掴みかかってくる。
後ろ向きに両手を掴まれたものの、ネメアは鼻輪の男を蹴り飛ばした瞬間から、既に口の中で呪言の構築を始めていた。
呪術師が呪いを発動するための術式は、何も指で陣を刻むだけではない。音や視覚など、様様な方式があるのだ。
本当なら使いたくなかったが、この状況ではやむを得ない。短い術式で瞬時に呪いを発動できるのは、最初から呪いを呪具に用意している造影呪術の強みだった。
「ラビ……!」
ネメアが名前を呼ぶと同時に、耳飾りが黒桃色に光り、肩の後ろに梟の形をした影獣が飛び出す。
腕を掴んでいたはずのネメアの姿が霧に溶けるように消え、少し離れた位置から逃げるように走り出したのを見て、男たちは慌ててそれを追いかけた。
ラビは九大災禍、“獄霧”系列の幻惑呪術。放った羽の範囲内に幻を構築する呪い。実際のネメアはその場所から動いてはいない。
手が自由になったネメアは素早く空中に指で術式を描き、指輪から黒青色の猫を呼び出した。
「リア。あいつらを懲らしめて」
体から青白い雷をほとばしらせながら、男たちに向かって閃光のように飛びかかるリア。
殺す気はない。だがしばらくは動けなくなってもらう必要があるだろう。
リアの雷によって体を貫かれた男たちは、急に重力が何倍になったかのように腰を落とし、そのまま両膝をつく。
リアの雷はただ相手を感電させるだけではなく、質量を持っている。相手に傷を与えつつ行動を阻害させることが、リアの主な役割だった。
防御のためのラビ、攻撃と牽制のためのリア。そしてとどめを刺すためのもう一体を含めた三体の影獣を扱うことが、現状でのネメアの基本戦法だった。
微弱な雷を流しつつリアは男たちの動きを止め続ける。
こいつらは呪術師ではないから、強引に記憶を奪っても露見するようなことは無いはずだ。
自分にかかっている呪いのせいで、この手の呪術には知見がある。短時間のみの記憶略奪の呪術なら行使が可能だ。ネメアは男たち一人ひとりの頭に手を乗せ、それぞれの記憶を念入りに呪術で消していった。
一仕事終えたネメアがラビの頭とリアの顎を交互に撫でると、彼らは満足そうに声を鳴らし、霧散した。
今後はもう少し強力で即効性のある呪具を用意した方がいいかもしれない。指輪の呪いだけで撃退出来ると考えていたが、ここは天下の奈落街だ。非呪術師のごろつきだろうと、呪いに慣れている者は多い。呪術師に慣れた人間が相手となれば、今のままでは毎回造影呪術を使わざるを得なくなってしまう。
早くこの場を離れた方がいいだろう。
ネメアは周囲を見渡し、落とし物や人の目が無いことを確認すると、足早にその場を離れることにした。
マヌリスの手掛かりを掴めなかったことと、ひと悶着あったことを踏まえ、今日はもう帰ろう、そう思った矢先だった。
闇市の中を歩いていたネメアは、突然誰かに肩を叩かれ足を止めた。振り返ると、穏やかそうな顔をした五十代ほどの細目の男が立っていた。
「……なにか?」
怪訝に思い尋ねる。客引きか何かだと思ったのだが、
「裏呪術師連盟の者です。先ほどのあなたの勇士を見ておりまして。宜しければ、少しお話を聞かせて頂いても宜しいでしょうか」
思わず表情が強張る。何も言葉を返せなかった。
人の気配は無かったはずだ。一体どこに隠れていたというのだろうか。――いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
逃げることは、出来ないだろう。ここは裏呪術師連盟の総本山。恐らくその気になれば各出入り口にも瞬時に情報が伝達されるはずだ。わざわざこんな大通りで声をかけてきたのも、こちらに下手な真似をさせないという思惑を感じる。なにより、ここで裏呪術師連盟に逆らって目を付けられれば、マヌリスの尾行どころではない。今後の塔や街での生活にも大きな支障をきたすことになる。
裏呪術師連盟の者であれば、当然造影呪術の存在を知っているはず。恐らく彼らが声をかけてきた理由は、先ほどのごろつきたちとの争いを見て、造影の魔女と自分の関与を疑ったからだ。
逃げることは出来ない。だが捕まれば酷い拷問を受けるかもしれない。どちらにせよ最悪の結末しか見えなかった。
細目の男はじっとこちらを見つめている。まるでネメアの心の葛藤を全て見透かしているかのようだった。
――逆に考えるんだ。こうなったら、この状況を最大限に利用する以外に手はない。
「……わかりました。ついていけばいいんですか」
細目の男を見返しながら答える。
「ええ。理解の速い方で助かります。それでは行きましょうか」
満足そうに頷くと、細目の男はにんまりとした笑みを浮かべた。




