その11
お妃さま視点です。
ほらほら、陛下、急いで下さ~い!
って感じで。
なんて言うか。
出鼻をくじかれる?
肩透かしを食らう?
って、多分こんなかしら。
「……つまり、陛下は一週間程、こちらにいらっしゃることができないと?」
夕暮れ時になって現れた陛下の側近に尋ねたのは、私ではなく、侍女頭。
後宮における、事実上ナンバーワンの、地を這うが如くの低い声に、若い男性はそのがっしりとした身体をビクリと竦めた。
あ、これは、ちょっと可哀相かも。
たまたま、命じられて伝言を伝えに来ただけだろうに。
でも、正直、私としても、そんな伝言なら、もう少し早く届けて欲しかったと、少し口惜しい。
だって、朝から散々悩んだ末に、ほんのつい先ほど侍女頭に、今日の事と次第を伝えたところなんだもの。
何をどう伝えたら良いのかわからなくて、結局、恥ずかしいのを堪えて『陛下のご寵愛をお受けしたいと思います』なんていう、分かりやすい言葉を口にするしかなかった。
なのに、侍女頭ときたら、必死に言葉を綴った私をポカンと口を開いて凝視して。
『今、なんと?』
そんな風に尋ねてきたのよ?
二度は言えません!と泣きたくなったけれど、答える前に泣き出したのは尋ねた方だった。
『ようやく、陛下の想いが!』
そんな風に言いながら。
こういってはなんだけど、この年齢の女性が人目も憚らずにワンワンと泣く姿なんて早々お目にかかれないから、状況を忘れてしみじみと眺めてしまった。
そして、思い出したの。
この方、初夜の翌朝も泣いてたわ。
私が陛下以外の男性と通じたと思い込んで。
見聞きしたことから察するにずっと陛下のお側にいたのよね。
こんなに涙するほど、陛下を思っていらっしゃるのだと、なんだか感動してしまった。
というのが、ほんの少し前の出来事。
そんな風に喜んだ彼女を思ってみれば、確かにその落胆も察することは難しくはない。
こちらの御人も運が悪いとしか言いようがないけど、諦めて睨みつけられて下さい。
なんて、どこか人ごとのように眺めていると、クルリと侍女頭が私に向き直った。
「お妃様! よろしいのですか!?」
またも涙目で訴えてくる。
良いも何も、だって、仕方ないでしょう。
まさか国の大事を放って、何が何でも来て下さい、なんて言える筈がない。
だから、侍女頭には答えずに、その向こうで身を縮めている側近の方を見遣る。
彼は、私と目が合うと、怯えたようにビクリと身体を揺らした。
陛下の側近だというし、この立派な体躯から思うに本当は猛者なのだろうに。
女二人を前に小動物のような反応をする男性がさすがに哀れで、せめて私は、とにっこりと微笑んで見せた。
「承知致しました。陛下にくれぐれもお体を大事になさいますようお伝え下さいませ」
これは、本心。
小国を治める父王でさえ、その多忙さはかなりのものだった。
それがこんな大国を治める身となれば、どれほどにご自身が優秀であろうと、信頼のできる家臣に恵まれていようとその状況は推して知るべしだろう。
いくらお若いとはいえ、やはり無理のしすぎは禁物だと思う。
「こちらのことは何もご心配はいりません……だから、ご無理はなさらぬようにと」
先日だって、発熱されていたものね。
本当に、絶対にご無理はなさらないで欲しい。
側近は、私の言葉が意外だったのか、目を見開いた。
そして、心なしか顔を紅潮させつつも、明らかにほっとした様子で了承の意を告げると、そそくさと去って行った。
「一晩……いえ、1時間や2時間ならばなんとでもなりましょうに……陛下は何をお考えなのでしょう!?」
1時間……2時間?
なんだか、いやに具体的な数字だけど、深くは追求しない。
「国の大事であれば、仕方ないわ」
もっともらしく言いながら、私はどこかで、安堵している自分に気がついてしまった。
そして、その往生際の悪さに、ちょっと呆れる。
陛下が好きと認めたのに。
……でも、あまりに急だったし。
というこれは、きっと言い訳。
本当は、まだどこかで、不安がある。
確かに陛下は私を想って下さっている。
私は陛下を想っている。
だけど、いざ、事を終えてみれば、陛下はやはりがっかりなさるかも。
だって、私が嫁き遅れの年増なのは事実なんだもの。
この後宮で陛下のご寵愛を受けていた若々しく美しい姫君達と比べられてしまったら、どう足掻いたって敵わない。
もしかして……今の私の状況を表現するのに一番相応しいのは、『難を逃れる』だったりして?
陛下は本当に7日の間、一度としていらっしゃらなかった。
昼も夜も。
お顔を見ることさえない状況だったけれど、それは私にとってある意味とても有意義だった。
最初の3日で、少し混乱気味だった頭を整理することができた。
4日目には、ゆっくりと過去を思い出して。
やっぱり、あの小さな子と陛下が同一人物とは思えないわ、と結論付けたりなんかして。
5日目には、私自身の想いを再確認。
6日目にはすっかり心も落ち着いて。
7日目には、覚悟は決まった。
我ながら、そんな風に期限に合わせてきっちり納めるとこは、歳をとっているだけはあると感心したりしていたのだ。
そして、どこで聞き込んできたのか、侍女頭が勢い込んで
『問題が解決したようですわ!』
と、私の部屋に走り込んできたのは、あの側近が口にした一週間の期限をほんの少し過ぎた8日目の朝だった。
では、今晩かと私は、覚悟をもう一度決め直す。
もう、がたがた言うまい。
ここは、どんと構えて……とりあえず、陛下の思し召し通りに、ね。
と、微妙に中途半端ではあったけど。
夜になって。
いつ、いらっしゃるのか。
いらっしゃったら、どうすれば良いのかしら。
お疲れだろうから、とにかくお手を煩わせないように。
ああした方が良いのか、しない方が良いのか。
人生で一番悩んだ一晩だったわ。
何と言っても時間の経過を忘れてしまったのだから。
鳥のさえずりが聞こえて、空が明けて行くのを見て、私はようやく気がついた。
昨晩は陛下はいらっしゃらなかったのだ、と。
翌日の昼ごろになって、あの時とは違う伝令が現れて、もう2、3日ばかり陛下が後宮へはいらっしゃることができないと告げていった。
完全寝不足な私は、微笑むこともできずに頷いて。
どうしてか、同じように寝不足らしい侍女頭が激怒して側近に詰め寄るのを、ただ眺めていた。
2、3日。
今度のこれは、私にとっては辛いばかりだった。
一日目で、決めた覚悟は脆くも崩れた。
二日目で、すっかり萎えてしまったそれが、不安へと変化し始めて。
三日目には、すっかり後ろ向き。
ここに来ないのは、お忙しいのもあるかもしれない。
そうなのかもしれないけど。
やっぱり陛下は……そう思わずにはいられない。
そうとしか思えなくなって。
「……だったら……」
つい、呟く。
もし、そうだったら?
別に大丈夫よね。
また、母親代わりに戻れば良いんだもの。
お茶のお相手して。
添い寝して。膝枕して。
身の周りのお世話をして差し上げれば良いだけ。
そして、適当な時期に国に帰るの。
それから……。
あら?
あらら?
どうして、こんなに胸が苦しいの?
どうして、目頭が熱いの?
どうして。
もう、いや。
こんな風に思うなら、覚悟なんて決めるのではなかった。
ううん、昼だろうとなんだろうと、さっさと済ませておくべきだったかもしれない。
そうすれば、少なくとも今のこんな物思いはせずに済んだのに。
どれぐらい、どっぷりと落ち込んでいたのだろう。
ノックもなく突如扉が開けられて、私は顔を上げて振り返った。
「陛下」
陛下がそこに立っていた。
とてもお疲れのご様子で、でも、じっと私を見る視線は、初めてお会いした時より、ずっと鋭く射抜くよう。
だけど、そんな視線でさえ、私は、もう怖くはなくて、まっすぐに見つめ返した。
「行くぞ」
陛下は言いながら、視線を逸らすことはないままに、私に近付いてきた。
久しぶりに拝見する長身が数歩で大接近するのを、私はラグの上に座り込んだまま呆然と見上げた。
いきなり現れたこの方は現実かしら?
私をこんな風に硬直させる視線が幻である筈もないのに、そんな風に思っていると突然身体がフワリと浮かぶ。
「陛下!?」
私の重さなど微塵も感じさせない足どりで歩き始め、さっさと部屋を出る。
本当にこの方は、あの小さな方?
すっかりと思い出した少年の面影を改めて探してみるが、やはり微塵もありはしない。
「すまぬ」
ぼそり、と聞こえたそれが謝罪だと、気が付くのに数秒。
「……何がでしょう?」
どうして、謝るのでしょう?
7日という最初の期限を超えても、私の元にいらっしゃらなかったから?
でも、それだけお忙しかったのでしょう?
それとも……やはり、私を正妃にしたことを悔やんでいらっしゃる?
国に返す?
それを詫びていらっしゃるの?
「泣きながら……意地悪を言うな」
意地悪?
違います。
本当にお尋ねしているの。
いえ、違う。
泣きながら?
私?
「泣いてなど……」
言う先から、ポタポタと雫が落ちて、陛下の衣を濡らす。
私は足掻くのを諦めて、ぎゅっと陛下の衣を握った。
だって、無理だと気が付いてしまったんだもの。
陛下のお側にいて、陛下のお世話をして。
そんな母親代わりなんて、できない。
私は、この方に一人の女性として見て欲しいの。
一人の女性として、愛して欲しいの。
ハラハラ零れる涙の滴が愛らしいのなんて、せいぜい10代の娘までだと思うのに。
私は涙を止めることができずに陛下の肩口に顔を埋めた。
いい歳をしてみっともない。
なんて思っていたら、陛下は後宮の門を潜り抜けて宮廷に入ってしまう。
途端にあまり見たことのない侍女や、挨拶程度しか交わしたことのない家臣たちが、恭しく跪くのが目に入る。
一体、何が起きているの?
訳が分からなくて、気が付けばあれほど止まらなかった涙が止まっていた。
でも、それに安堵している暇はない。
だって、私、陛下に抱っこされてますけど。
こんな格好で、宮廷を横断なんて!
けれど、それを訴えて降ろしてもらう間もなく、陛下は更に宮廷からも出てしまった。
輿入れして以来初めての事態に戸惑う私を、陛下は正門前で待っていた馬車へと乗せるとご自身も乗り込んでくる。
「一週間だ」
椅子に私を座らせ、ご自身は私の前に膝をついた。
「はい?」
陛下を跪づかせているという事態にうろたえながらも、聞き逃さなかった言葉の意味が分からなくて、私は首を傾げた。
一週間、とは?
陛下の手のひらが私の頬を包む。
温かい。
久しぶり。
つい、瞼が閉じて。
その感触を受け入れる。
「この10日間の拘束と引き換えに、一週間の暇を宰相に納得させた」
ああ、その一週間。
……え?
一週間の暇?
「あの?」
慌てて瞼を上げると、すぐにも口づけされそうな程近くに、陛下のお顔がある。
相変わらず端正な造りについ見入る。
と、頬を包んでいた陛下の手のひらが動き、親指が私の唇を撫でた。
なんだか。
「陛下?」
その、陛下の空気が、ですね。
妖しいのですが。
これ、ちょっと身に覚えがあります。
「お前と過ごすためだ」
陛下は言って、ぐっと身を乗り出してきた。
唇が触れる寸前、ついつい身をのけ反らせてそれを避けるも、狭い馬車の中にそうそう逃げ場がある筈もない。
「一晩、二晩では満足できる筈もないだろう」
言うなり、私は椅子から落ちる勢いで、陛下に引き寄せられた。
「っ陛下!?」
反射的に身を捩ると、許さぬとばかりに太い腕が腰を抱く。
「朝も夜も離さん」
耳元に寄せられた唇から、低く掠れたそんな囁き。
意識なく身が竦んだ。
「不安になる間などない程に……俺の想いを思い知らせてやろう」
ああ、もう。
何なんですか、それ。
さっきまでの、私の物思いはなんだったんですか?
「覚悟しておけ」
言葉と共に、首筋に口づけられ、私は渾身の力で陛下から身を離した。
まっすぐに。
射抜く視線。
私は……誤魔化しようのない嬉しさで、それを受け止めて。
「……陛下、あの、私、覚悟はしております」
小さな子のように陛下の脚の上に座り、それでようやく真正面にお顔を見ることができるという程に大きな方。
思い出したのは、私の膝を枕に寝入る小さな子。
あの頃から、ずっと私を想っていたという人。
あの小さな子は、私にとっては思い出の彼方の欠片で。
私は……今目の前にいるこの方が好き。
7つも年下だけど、一人の男性として。
でもね、陛下。
それでも、やっぱり私は。
「ですが、そんな若くない上に、経験もございませんから」
沸騰しそうなくらいに顔が熱い。
ここから先を陛下を見つめたまま言うのは無理。
だから、俯く。
すると、促すように手のひらが再び頬を包んだ。
「他の方のように、陛下のお気に召すようなお相手ができるか分かりませんが」
頬にある陛下の大きな手のひらに、私の貧相な手を重ねる。
「あの、頑張りますけど……どうぞ……お手柔らかに……お願いします、ね?」
なんとか、かんとか、決意と希望を言い切る。
妙な沈黙。
あの、陛下?
私、変な事言いました?
勇気を出して、そっと顔を上げると
「……っ陛下!?」
私はとんでもなく強い力に抱き寄せられ、そして、不穏な一言が耳に注がれる。
「抑えられん」
「は?」
何?
何とおっしゃいました?
意味を問うより早く大きな手のひらが、不本意ながらも陛下の腰を挟む私の脚を撫でた。
「お前が欲しい」
ぎょっとする。
戯言、ですよね?
「もう……待てん」
ぐっと、背が反るほどに。
そして、胸元に埋められる陛下のお顔に、私はこれが冗談ではないと気が付いた。
「こんな場所は、覚悟の内に入っておりません!」
そう、こんなのまったく想定外です。
無理!
無理です!
絶対に!
「陛下!」
肩を叩く。
身を捩る。
いくら、年を経ているからって、初めてがこんな場所って!
あり得ないです!
「……陛下?」
私を抱く腕の力は緩まない。
だけれど、陛下の手も唇も、ピタリと止まったまま動かない。
私の胸元に埋もれた表情をそっと覗きこむと、少し削がれたような輪郭と、蒼い瞼が垣間見えた。
ちょっと、待って。
私、この方と結局10日間ばかり、お会いしなったのよね。
それって、すごく陛下が忙しかったからな訳で。
もしかして。
「……ずっと徹夜だったのですか?」
陛下は少し間を置いて、頷くことで、これに答えてくれる。
私はちょっと呆れてしまう。
そんなにお疲れなら、こんな風に宮廷を抜け出す前に、寝台でお休みになれば良いのに。
「お休み下さい」
私が言うと、陛下はちらりと私の胸元から視線を上げて。
恨みがましいような、それでいて私をからかうような瞳で。
「この間はいつも途中でやめると拗ねていた」
う……そんなこと……言ったかもしれない。
しれないけれど、今は、そういう状況ではないでしょう?
私を抱きしめたまま、今にも眠ってしまいそうですよ?
「どれほど馬車に乗るのでしょう?」
既に動きだして、不定期に揺れる馬車の行方を尋ねる。
陛下はぎゅっと私を抱き直し
「半日程だ」
答えた。
私は、抗うのを止めて、そっと陛下の背に腕を回した。
どうしてかビクリと揺れた大きな背中を撫でて、仕返しのように耳元で尋ねた。
「……馬車でなどとは考えておりませんでしたが……私、本当に覚悟していたのです」
陛下は、今度は、私の胸元から完全に顔を上げた。
「ですが、随分と時間が空いたので、少々くじけそうなのです」
何が言いたいのかと問うように。
私の言葉に不安を滲ませるかのように。
陛下の眉が寄る。
深く刻まれたそれに口づけをしたら、解けるかしら。
「でも」
口づける勇気なんてないけれど、私は陛下に微笑みかけた。
「半日程もあれば、もう一度、覚悟できるかと」
そう、どこに行くかは知れないけれど。
この馬車が目的の地に辿り着く頃には。
「私、もう……逃げたりしません」
だって、陛下に愛して欲しいのだもの。
先ほど、陛下はどれほど私が欲しいかを思い知らせるとおっしゃったけど、私は既に思い知らされているの。
私は、この男性に女性として愛して愛されたい、と。
「だから、安心してお休み下さい」
まずは、私の傍らで疲れを癒して下さい。
添い寝……は馬車では無理だけど。
できることは、何でもするから。
そして、目覚めたら、私を愛して欲しい……とは、さすがに言えませんけど。
「……お前は……本当に、俺の扱いが上手いな」
やがて、陛下が呟いた。
まだ、陛下の脚に座り込んでいた私を、これもまた軽々と持ち上げて浮かせると、椅子に座らせてくれる。
そして、陛下は私の足元に座り込んだ。
「膝を貸せ」
私はつい笑ってしまった。
そうですね。
添い寝はできないけれど、それならできます。
「……お好きなだけ」
答えれば、陛下が私の足に頭を乗せ、まぶたを閉じる。
よほどお疲れだったのだろう。
ほどなく、穏やかな寝息が聞こえてきた。
目を覚まされたら。
今度こそ、私から、キスしてみようか。
唇はちょっと恥ずかしいから。
私は、陛下の眉間に指を触れた。
そう、先ほどはできなかったここに。
弟扱いするなと、陛下はお怒りになるかしら。
一端、ここで完結ということにしたいと思います。
ここからの一週間は、ちょっと『なろう』sideでは書けませんから!!
でも、番外編っぽくちょこちょこ書き綴っていくつもりはありますので、
お暇な時に覗いてみて頂けると幸せかも。