第4話 虚構の王国
俺は、高橋のマンションを引き払うことをやめた。
デジタル遺品整理屋としての瀬戸は、事故で失踪したことにしてある。俺は、高橋の遺した資産と、彼が構築した「虚構の王国」を継承した。
この部屋は、今や俺の城であり、同時に檻でもある。
カーテンを閉め切り、遮光された空間で、俺はモニターの光だけを頼りに生きている。かつて瀬戸として生きていた頃の記憶は、まるで他人の記録映像のように遠い。俺は「高橋」としてログインし、数千人の「駒」たちに指示を出し続けていた。
彼らは、俺が何者であるかを知らない。
俺が送るメッセージの文体、語彙、そして時折挿入される「高橋特有の皮肉」を、彼らは疑うことなく受け入れている。俺は、彼らの人生を操作する神になった。誰かを別れさせ、誰かを結びつけ、誰かのキャリアを破壊し、誰かの夢を叶える。
だが、その代償は大きかった。
鏡を見るたびに、俺は自分の顔が、少しずつ高橋のそれに似てきているような錯覚に陥る。いや、顔が変わるのではない。俺の思考回路そのものが、高橋の論理に侵食されているのだ。
「効率的だ」
俺は独り言を漏らす。
かつての瀬戸なら、他人の人生を弄ぶことに罪悪感を抱いただろう。だが、今の俺にとって、それは単なるデータの最適化に過ぎない。人間関係の摩擦は、適切な情報を流すことで解消できる。悲劇は、適切なタイミングで嘘を混ぜることで回避できる。
しかし、その均衡が崩れ始めたのは、あるメッセージが届いた時だった。
ハンドルネーム『ミユ』。
高橋が最も深く関与していた駒の一人であり、ある地方都市でカフェを経営している女性だ。彼女はこれまで、高橋の指示に対して一度も疑問を呈したことがなかった。
『高橋さん。最近、あなたの言葉に「ノイズ」が混じっています。以前のあなたは、もっと冷徹で、もっと残酷でした。今のあなたは、どこか……迷っているように見えます。あなたは、本当に高橋さんですか?』
心臓が凍りつくのを感じた。
俺は即座にログを解析した。彼女の端末のIPアドレス、ブラウザの指紋、過去の投稿履歴。すべてを精査する。彼女は単なる駒ではない。彼女は、高橋の「実験」の成果物として、人間以上の洞察力を与えられていたのかもしれない。
俺は震える指で返信を打つ。
『私は高橋だ。君の認識が揺らいでいるだけだ。休息が必要ではないか?』
即座に返信が来る。
『いいえ。あなたは高橋さんじゃない。あなたは、高橋さんのPCを覗き込んだ誰か。……瀬戸さん、ですよね?』
モニターの向こう側で、彼女が俺の正体を見透かしている。
俺は椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き回った。高橋の「王国」は、俺が思っていたよりも遥かに脆い。一人の駒がシステムに気づけば、それは連鎖的に崩壊する。
俺は、彼女を物理的に排除するべきかと考えた。
だが、それは高橋のやり方ではない。高橋なら、彼女を「排除」するのではなく、彼女の認識そのものを「書き換える」はずだ。
俺は、彼女の過去のログをすべて洗い直した。
すると、ある事実が浮かび上がってきた。
彼女がかつて、自分のカフェで働いていたある男性を失った記録。その男性の死の状況が、俺がかつて失った恋人の状況と酷似している。
高橋は、俺と彼女を「鏡合わせ」の実験体として扱っていたのだ。
俺たちは、高橋が作り上げた「孤独の再生産」というシステムの、二つの歯車だった。
俺は、彼女に対して、ある提案をすることにした。
この王国を維持するのではなく、この王国を「破壊」するための共犯関係。
俺はキーボードを叩いた。
『ミユ。君の言う通りだ。私は瀬戸だ。そして、私も君と同じように、このゲームに飽き飽きしている。高橋の遺産を、二人で終わらせないか?』
送信ボタンを押す。
モニターには、返信を待つカーソルが点滅している。それはまるで、俺の心臓の鼓動のように、規則的で、無機質だった。
もし彼女が拒絶すれば、俺の正体は王国全体に暴露されるだろう。
もし彼女が同意すれば、俺たちはこの虚構の神を殺し、現実という名の荒野に戻ることになる。
どちらに転んでも、俺の「高橋」としての生は終わる。
だが、その結末こそが、俺がこの死後の部屋で唯一望んでいた「整理」なのかもしれない。
返信が来た。
『いいわ。瀬戸さん。……地獄の底で、会いましょう』
俺は、部屋の照明をすべて消した。
モニターの光だけが、暗闇の中で俺の顔を白く浮かび上がらせている。
俺は、王国を崩壊させるための「ウイルス」のコードを書き始めた。




