第5話 接続の遮断
ウイルスは、静かに、そして確実に王国の心臓部へと浸透していった。
高橋が何年もかけて構築した数千のSNSアカウントが、次々と異常なログを吐き出し、自壊していく。通知音が止まらない。かつて俺を「神」と崇めていた駒たちが、混乱し、悲鳴を上げ、やがて沈黙していく。
俺の指は、最後の実行コマンドの上に置かれていた。
『DELETE_ALL_SYSTEMS』。
このコマンドを実行すれば、高橋の遺したすべてのデータ、俺が継承した高橋という人格、そしてミユとの間に築いたこの歪な共犯関係すらも、電子の海から消滅する。
ミユから最後のメッセージが届いた。
『瀬戸さん。私たちが消えたあと、世界には何が残ると思う?』
俺はキーボードを叩く。
『何も残らない。それが、このゲームの唯一の正解だ』
俺たちは、自分たちの人生を「整理」しようとしていた。しかし、それは同時に、自分たちの存在証明を消去することと同義だった。高橋という男に操られ、彼が死んだ後はその亡霊を演じ、今、俺たちは自分自身の意志で、その亡霊ごと自分を殺そうとしている。
俺は、ふとデスクの引き出しを開けた。
そこには、高橋が最後に書き残した、一冊の手書きのノートがあった。これまでデジタルデータばかりに目を奪われていたが、このノートだけは物理的な実体としてそこに存在していた。
ページをめくる。
そこには、高橋の筆跡で、たった一行だけが記されていた。
『私は、誰かに愛されたかっただけだ』
俺は息を呑んだ。
高橋という男の正体。それは、誰よりも強烈に「接続」を渇望した、孤独な人間だったのだ。他人を操り、自分の人生を演じさせたのは、他人の人生の一部になることでしか、自分という空虚な存在を埋められなかったからだ。
俺も同じだった。
彼女を失った喪失感を埋めるために、誰かの人生を整理し、最後には高橋の人生を演じることで、俺は「自分」という存在を消し去ろうとしていた。
俺たちは、愛されることを恐れ、接続されることを拒み、その結果として、最も深い孤独の中に沈んでいた。
「……終わらせよう」
俺はエンターキーを叩いた。
モニターの画面が激しく明滅する。ハードディスクが悲鳴のような駆動音を上げ、ファンが最後に一回転して止まった。
部屋の明かりが落ちる。
デジタルフォトフレームの画面も、PCのインジケーターも、すべてが消えた。
部屋には、完全な闇が訪れた。
電子的なノイズも、通知の音も、何も聞こえない。
俺は椅子から立ち上がり、窓を開けた。
夜明け前の、冷たい空気が流れ込んでくる。
外では、都会の喧騒が、これまで通りに続いていた。何千人もの人々が、それぞれの人生を生き、それぞれの繋がりの中で呼吸している。
俺は、もう「高橋」ではない。
そして、「デジタル遺品整理屋の瀬戸」でもない。
俺は、ただの何者でもない男として、この部屋を出る。
ポケットの中には、何も入っていない。
スマートフォンも、PCのバックアップも、すべて破壊した。
俺の人生の記録は、この瞬間、この世界から物理的に消滅した。
俺は部屋のドアを開け、廊下に出た。
背後で、重い扉が閉まる音がした。
それは、死後の部屋との決別であり、虚構からの脱出だった。
階段を下り、マンションの入り口を出る。
朝焼けの光が、網膜を刺した。
眩しい。
俺は、自分の名前を思い出そうとした。だが、出てこない。
それでいいと思った。
これから歩む道には、過去という名のデータも、未来という名のシナリオも存在しない。
俺は、誰にも見られていない道を、ただ一人で歩き出した。
その足取りは、驚くほど軽かった。
俺は、初めて「自分」という名の、何者でもない物語を書き始める。
空っぽの心に、冷たい朝の風が吹き抜けていった。
それが、ひどく心地よかった。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
デジタル遺品整理という現代的な題材を切り口に、他人の人生を演じることの危うさと、そこから解放されることの空虚さをテーマに執筆しました。
瀬戸が最後に手にした「自由」が、読者の皆様にはどう映ったでしょうか。彼が消し去ったのはデータだけなのか、それとも自分自身の過去そのものだったのか。結末の解釈については、皆様それぞれの視点で受け取っていただければ幸いです。
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