第3話 操り人形の自律
モニター上のメール本文は、驚くほど事務的だった。
『瀬戸。君がこのメールを開いたということは、私の死後、君が私の人生を「整理」する権利を得たということだ。あるいは、君が私の人生を「継承」する準備が整ったということかもしれない。
君はこれまで、他人の死の残滓を消去することで報酬を得てきた。だが、一度でも考えたことはないか? 君が消去したそのデータの中に、誰かの生きた証や、あるいは救いがあったのではないかと。
君の恋人が消えたあの日、君がどれほど絶望したかを知っている。あれは、私が消したのではない。君自身が、彼女のデジタルな痕跡を恐れて、自らアクセスを断ったのだ。君は「整理」という名目で、過去から逃げ続けてきた。
さあ、ここからは君の自由だ。私の遺したこの膨大な「人生」を、君の手で消去するか、それとも、君自身の続きとして生きるか。どちらを選んでも、君はもう、以前の君には戻れない』
画面を閉じた。心臓が早鐘を打っている。
高橋の指摘は、図星だった。
彼女が死んだあと、俺は彼女のSNSアカウントを凍結申請した。遺族の同意という名目だったが、本音は違った。彼女のタイムラインに並ぶ「俺の知らない彼女」が、あまりにも眩しくて、直視できなかったからだ。俺は自分の弱さを「整理」という職業で隠蔽し、正当化していたに過ぎない。
俺はキーボードから手を離し、椅子に深く沈み込んだ。
部屋の静寂が、以前よりも濃密に感じられる。
高橋は死んでいる。にもかかわらず、彼の言葉は俺の思考を支配し、俺の過去を解剖し、俺の未来を提示している。
「……ふざけるな」
声は驚くほど低く、震えていた。
俺は立ち上がり、部屋を歩き回った。高級な家具、無機質な壁。ここにあるすべてのものが、高橋という男の「装置」に見えてくる。俺をここに誘い込み、このメールを読ませ、俺の精神を揺さぶるための、精巧な舞台装置だ。
葛藤が渦巻く。
このままPCの電源を抜き、HDDを物理的に破壊すればいい。それが「デジタル遺品整理屋」としての正しい仕事だ。依頼主の要望通り、故人のプライバシーを抹消する。それで報酬を受け取り、この部屋を出れば、俺の日常は元に戻るはずだ。
しかし、俺の指は、再びキーボードの上に置かれていた。
『瀬戸・未来予測_001.txt』というファイルが、デスクトップの隅で点滅しているように見えた。
これを開けば、俺の人生の続きが書かれている。
もし、そこに「俺が次に誰を愛し、どのように裏切られ、どのような死を迎えるか」が記されていたら?
それを知ることは、呪いか、それとも救いか。
俺は、自分が「操り人形」であることを理解している。だが、操り人形が自分の糸の結び目を確認したいと願うのは、人として当然の欲求ではないか。
いや、これは欲求ではない。高橋が俺に植え付けた、プログラムされた「好奇心」なのかもしれない。
俺はファイルを開いた。
そこには、俺がこれから起こすであろう行動が、詳細なログとして記録されていた。
『2026年11月8日、瀬戸は高橋の遺したデータを前に、強い葛藤を抱く。彼はプロとしての倫理と、過去への執着の間で揺れ動く。最終的に、彼は好奇心に負け、このファイルを開くことになる』
背筋に走ったのは、恐怖ではなく、言いようのない「諦念」だった。
俺は、高橋のシナリオ通りに動いている。
このファイルを開くことさえも、彼にとっては予定調和だったのだ。
俺は笑い出した。
乾いた、自分のものとは思えない笑い声が部屋に響く。
俺は、彼に負けたのか?
それとも、彼という「器」を乗っ取ることで、このゲームを終わらせるのか。
俺はPCのコンソールを開き、高橋が使っていたスクリプト言語の構文を確認した。
彼の書いたコードは、驚くほど洗練されている。だが、完璧ではない。
彼が「人間」である以上、必ずどこかに感情の揺らぎ、つまり「バグ」が潜んでいるはずだ。
俺は、高橋が操っていた数千人のSNSアカウントのリストを表示させた。
彼らは皆、高橋という「神」の言葉を信じ、その指示に従って生きてきた。
もし、俺が今、この「神」の座に座り、彼らに全く別の命令を下したらどうなる?
高橋の人生を消すのではない。高橋として生き、彼が作り上げた虚構の王国を、俺の意志で再構築する。
それが、俺がかつて彼女を失ったという「空白」を埋めるための、唯一の復讐になるのではないか。
俺は、高橋のメインアカウントにログインした。
画面の右下に、通知が届く。
高橋が死んでもなお、彼を「神」と崇める何百人ものユーザーからのメッセージだ。
『次の指示をください』
『私たちは、どうすればいいのですか?』
俺は指を置いた。
返信を入力する。
その瞬間、俺の意識は、デジタルという海に溶け出し、高橋という男の人生を飲み込んでいくような感覚に陥った。
これが、俺の選んだ道だ。
倫理も、過去も、すべてをデジタルという名の虚構に捧げる。
俺は、死んだ高橋の「続き」として、新しい人生を開始する。
モニターの光が、俺の瞳の奥に深く焼き付いた。
部屋の時計が、午前三時を指している。
俺は、最初の返信を送信した。




