元どおり
城を出て、坂を下ると、町の匂いが変わった。
石の匂いから、水と煙の匂いへ。荷車の上で、エルは膝に木箱を抱えていた。荷運びの男が手綱を握り、ときどき、荷が揺れていないかと振り返る。
「殿下、工房は川のそばです。足元が濡れておりますから、荷車から降りるときは、こちらの手を」
川沿いの通りには、紙と革の店が並んでいた。荷車を降りると、通りの人は荷運びの男を見て、それから木箱を見た。エルのことは、見なかった。この町に、王子の顔を知っている人はいないらしい。
男は、人とすれ違うたびに、エルの半歩前に出た。荷を守る癖だろう、とエルは思った。
製本と修復の工房は、通りの端にあった。開いた戸口から、糊を煮る匂いがする。小図書館の匂いと同じで、もっと濃い。
中は、紙の山と板の山だった。壁には糸の束が色ごとに掛けてあり、作業台の上に、革を押さえる重しが並んでいる。
「殿下でも、糊の鍋のそばで走らないで」
先に声をかけてきたのは、エルと同じくらいの背丈の女の子だった。袖を肘までまくって、鍋をかき混ぜている。走ってはいない、と言う前に、奥から低い声がした。
「ソーニャ。殿下は走っていない」
「走る人は、だいたい走っていないって言う」
親方は、年のいった女の人だった。指の先が、インクと糊で黒い。フリッツァと名乗って、エルの木箱を見た。
「三度目だね。言づては届いたかい」
「糸のせいではない、と。そのとおりでした」
エルは、箱を開けて、紙の山を見せた。手で書いた頁と、印刷の頁。二つに分かれていること。四十年前に一冊にされていること。
箱に鍵をかけても、ほどけたこと。それも言った。
フリッツァは、紙を一枚ずつ指で確かめながら、黙って聞いていた。ソーニャも、鍋の火を弱めて、横から覗き込んだ。
「二冊に戻してください。別々に綴じれば、それで」
フリッツァは、いちばん下の二枚を持ち上げた。印刷の最後の頁と、手で書いた最初の頁。裏同士が、貼り合わされている。
「分けるのは簡単だ。糸は、もうないんだから。二冊を一冊にしているのは、この貼り合わせた二枚だけだよ」
二枚の継ぎ目を、爪の先でなぞる。
「剥がすのは一瞬だよ、殿下。剥がした字は、戻らない」
それから、縁を指でなぞった。
「これは、製紙の工房が自分で綴じた本だ。工房は、本を道具のように綴じる。同じ術の本が二冊あれば、一冊にしておけば失くさない。そう考える」
「失くさないために、一冊に」
「悪気はないさ。四十年、失くさなかった」
「一冊にしたとき、手で書いたほうは、印刷のほうに合わせて縁を切られた。切った字は、もう戻らない。穴も、二冊まとめて開けてある。この貼り合わせた二枚は、剥がせば字が半分消える。剥がさなければ、片方の本に、もう片方の一枚がついたままになる」
「それでも、二冊には」
「なるよ。だが、どちらの元に戻すんだい。四十年前の一冊か。その前の二冊か。二冊に戻しても、同じ二冊にはならない」
エルは、答えられなかった。
元どおり、と書いたとき、戻る先はひとつしかないと思っていた。四十年前の一冊と、その前の二冊。戻る先は、二つあった。
「ソーニャ。剥がすところを見せておやり」
女の子は、鍋から離れて、作業台の隅から糊で貼った紙の切れ端を持ってきた。濡らした布で湿らせ、角から、少しずつ剥がしていく。息を止めているのが分かった。剥がれた面の字は、糊と一緒に半分、向こう側へ持っていかれていた。
「上手な人がやっても、これ」
ソーニャは、剥がした紙をエルの前に置いた。
「あたしは、まだ上手じゃないけど」
フリッツァが言った。
「決めるのは、本を預かる人だ。殿下と、司書どのだよ。わたしは、決まったとおりにやるだけだ。今日は、剥がさないし、綴じない」
箱は、しばらく開いたままだった。エルは紙を元の順に戻し、蓋をした。
「決まったら、司書どのの手紙を持っておいで。本を預かっているのは司書どのだ。殿下の言葉だけでは、わたしは綴じない」
「どうしてですか」
「殿下は、今日、途中で答えられなくなった。答えられない人の言うことは、まだ決まっていない」
そのとおりだった。
エルは、木箱の縁を握った。殿下、と呼ばれているのに、殿下の言葉では決まらないものがある。初めてだった。
戸口を出るとき、ソーニャが言った。
「また来るなら、走らないで」
帰りの荷車で、エルは手帳を開かなかった。
運べたら、何が分かります。ルートヴィヒ親方のあの問いに、今度は聞かれる前に答えたつもりだった。二冊に戻せば、元どおり。
けれど本は、毎朝、紙を二つに分けて置いているだけだ。どの二冊に戻したいのかは、聞いていない。聞けない相手に、どう聞くのか。
「殿下、帰りは暗くなります。少し急がせます」
荷運びの男の声に、エルは頷いた。木箱が、膝の上で重かった。
その晩、小図書館には明かりがあった。
「読みますか」
エミーリエは明かりを足して、机の端に座った。帳面を開いているが、頁はめくられない。
エルは、手で書いた頁を、最後まで読んだ。
病の年の終わりのほうは、字がますます薄い。井戸の水を、一日に二度寝かせたこと。村の半分が、その井戸の水を飲んだこと。井戸番の家の者も、一人病んだこと。
春になって病がやみ、川の水が戻ったこと。
最後の一枚に、こう書いてあった。
この覚えは、井戸を守る人のために書く。紙を作る人には、用がない。
エルは、その行を二度読んだ。
「エミーリエ。この本、どうしたらいいと思いますか」
「私に聞くのは、答えが出てからにしなさい。出る前に聞くと、私の答えになります」
それも、そのとおりだった。
一冊にされたことを、この人は知らない。知っていたら、きっと、こう言っただろう。紙を作る人の本の後ろに、綴じないでほしい。
本が毎朝ほどけるのは、そういうことなのかもしれない。かもしれない、で止めた。本人には聞けない。
残るのは、糊の下の一枚だ。
手帳に、できることを三つ書いた。一冊のまま綴じ直す。二冊に分けて、糊の頁を剥がす。二冊に分けて、剥がさない。
一冊のままは、本が許さない。剥がせば、字が半分消える。剥がさなければ、井戸番の最初の一枚が、読めないまま残る。
どれも、元どおりではなかった。
エルは、貼り合わされた二枚の角に、爪を当てた。乾いた糊が、わずかに浮く。
ここから剥がせば、正しい向きで読める。
ソーニャが剥がした紙を思い出した。糊と一緒に、向こう側へ持っていかれた字。
爪を離した。
代わりに、二枚を明かりにかざした。薄い紙の向こうで、インクが透ける。裏返しの字だ。鏡に映したように、左右が逆になっている。
読める。
「エミーリエ、明かりを、もう少し」
エミーリエが、燭台を寄せた。蝋燭の熱が、指に来る。
ゆっくり、一文字ずつ拾った。ブルンの井戸番、セレナ。病の年に、これを書く。
その下に、名前が並んでいた。井戸の水を分けた家の名だろう。六つまで読めて、二つは、糊が濃くて読めなかった。
手帳に写す。読めない二つは、「?」にした。
「この一枚が、いちばん大事なんだと思います」
エルは言った。
「剥がせば、半分消えます。剥がさなければ、読めません。でも、ここに書いてあることは、もう分かりました」
エミーリエは、鏡の字を自分でも読んでから、言った。
「では、剥がさない。それで、どちらの本につけますか」
エルは、術具の工房のルートヴィヒ親方の言葉を思い出した。手引きは、どの工房にもある。印刷の本だから、同じものが何冊もある。
「手引きのほうは、町の工房にいくらでもあります。最後の一枚が欠けても、ほかの本で読めます。井戸番の本は、これ一冊です」
貼り合わせた二枚は、井戸番の本につける。手引きは、最後の一枚を欠いたままにする。
「それを、あなたが決めるのですか」
「ぼくが決めていいかは、分かりません。だから、案として書きます。エミーリエと、フリッツァさんに」
エミーリエは頷いた。頷いただけで、よいとも悪いとも言わなかった。
エルは手帳に、二冊の案を書いた。元どおり、の字の上に線を引いて、その横に書いた。
鏡の中の字は、二人分、読めないままだった。




