二冊の筆跡
「殿下、ゆうべは風が強うございました。窓が鳴っておりましたよ」
小図書館の前で、庭師の女が落ち葉を掃いていた。エルは礼を言って、扉に手をかけた。
「箱は、棚の下でございましたね。窓からは、遠い」
「どうして、箱のことを」
「掃いていると、窓から見えます。小図書館の窓は、低うございますから」
そう言われれば、そうだった。
風。手帳に書く候補がひとつ増えた。けれど箱は、窓から離れた棚の下にある。風で箱の中の糸はほどけない。
木箱の錠は、かかったままだった。鍵を差し込むと、かたい音がして開いた。
中で、本はほどけていた。
革の表紙。その横に、本文の紙の山。糸は背に残り、結び目の上に落とした蝋は、糸の先にくっついたまま、結び目だけがなかった。
割れてもいない。結び目が、蝋ごと、そっと解かれたようだった。
箱の中だ。風ではない。人でもない。
預かりは、ここまでかもしれない。鍵をかけた箱の中でほどけたのなら、見習いに預けておく理由はない。
手帳の「外れた考え」に、風と人を足した。「次に確かめること」は、昨日書いたとおりだ。手で書いた二十六枚が、後ろにあるか。
エルは、箱の中の山を、崩さないように閲覧机へ移した。それから、山の上から一枚ずつ取って、机の上に横一列に並べていく。重ねてあった順が、そのまま机の上の順になる。閲覧机を端から端まで使って、ようやく全部が載った。
並べ終えて、端から見た。
山の上にあった二十六枚は、どれも手で書いた小さい字の頁だった。二十七枚目から先は、全部、印刷の頁。昨日、印刷の頁の後ろへ重ねた二十六枚が、前に移されている。手で書いた頁と印刷の頁が、混じらずに、前と後ろに分かれている。
順も確かめた。印刷の頁は、隅の番号のとおりに並んでいる。手で書いた頁には番号がないので、一枚ずつ、終わりの文と次の頭の文を読んで確かめた。どの一枚も、前の一枚の文の続きだった。
誰かが、二つに分けて、それぞれを順に重ねている。順を知っている誰かが。
紙を透かすと、手で書いた頁のほうが薄く、黄ばんでいた。
縁は、印刷の頁と同じ大きさに、きれいに切り揃えてある。切った縁のところで、字が途中で終わっている行があった。もとは、もっと大きな紙だったのだ。
一冊に見えて、二冊だ。
エルは帳面を引いた。『澄まし水の手引き』。四十年ほど前に、川上の製紙工房が納めた本で、一冊、とある。
二冊目は、帳面にない。札にもない。四十年前に札を書いた人も、一冊だと思っていた。
「エミーリエ、この本、二冊です」
エミーリエは手で書いた頁を一枚取り、窓に向けて透かした。長いこと、そうしていた。
「気づきませんでした。修繕に出すとき、私は糸しか見ていなかった」
それから、紙を机に戻した。
「あなたは、糸ではなく紙を見た。それが見習いの仕事です」
褒められたのだと分かるまで、少しかかった。
「預かりは、続けていいんですか」
「鍵は、そのまま持っていなさい」
「手で書いたほうは、何の本ですか」
「まだ読んでいません。読みにくい字です」
「読める人が読みなさい。私は、帳面を直します」
エミーリエは、帳面の「一冊」の横に、小さく印を付けた。
午後、エルは術具の工房へ走った。
ルートヴィヒ親方は、手引きの名を聞くと、机の端の桶を引き寄せた。泥の混じった水が、半分ほど入っている。
「殿下、見ていてくだされ。手は出さない」
「出しません」
「前にも、言いましたな」
柄の先に黒い石をはめた棒を、水の上にかざす。
一息のあいだに、泥が底へ沈んだ。上澄みが、窓の光を通した。桶の底に、泥が薄く、平らに敷かれている。
「紙を漉く水を澄ませる術ですな。濁った水で漉いた紙は、灰色になる。町の製紙工房は、毎日これをやる。手引きは、どの工房にもあります」
「どの工房にも」
「印刷の本ですからな。同じものが何冊もある」
エルは手帳に、手引きはどの工房にもある、と書いた。
「紙を漉く水が濁っていると、どうなるんですか」
「灰色の紙になる。字が読みにくい。安い紙です」
親方は、桶の底の泥を指で示した。
「泥は沈んでも、水の中に残っている。桶なら、それでよい。すぐ使うのだから」
「ゆっくりやることは、できますか」
「できるでしょうが、速いのが取り柄で。ゆっくりやる理由がない」
速い、と書き足した。
「それから、物に残った思い、というのは」
親方は、桶の水を見たまま、少し黙った。
「場所に残るのは、この城で見ましたな。物に残るのは、聞きません。本は、人の手が長く触れる物ではありますが」
分かりませんな、と親方は言った。分からないことを分からないと言う人が、この城には多い。
「本の修繕なら、川沿いのフリッツァの工房ですな。口は悪いが、腕は確かだ」
「その工房から、戻ってきた本です」
「フリッツァが糸のせいではないと言ったのなら、糸のせいではない」
帰りぎわに、親方が言い足した。
「厨房の熱を外へ逃がす、壁の中の道の直しは、半分まで進みました。直りきるまでは、これまでどおり、古い回廊の格子から熱を抜いております」
直りきれば、古い回廊の格子から熱は抜かれなくなる。夕方の片づけの熱も、あそこへは流れなくなる。
エルは頷いて、その言葉を手帳の隅に書いた。そのあとのことは、まだ考えなかった。
夕方、エルは閲覧机で、手で書いた頁を読んだ。
読みにくい字だった。インクが薄く、行が傾いている。字の形が、今の書き方と少し違う。それでも、何の本かは分かった。
書いたのは、井戸番だった。ブルンという村の井戸を預かっていた人で、ところどころに、セレナ、と名が入っている。病の年のことが書いてある。村で病が広がり、川の水が飲めなくなり、井戸の水も濁った。
泥を寝かせる、とその人は書いていた。
井戸の水の泥を、底へ寝かせる。手引きにある澄まし水と、同じ術だ。
速く寝かせてはならない。速く寝かせると、井戸の底が荒れて、次の日にはまた濁る。一日かけて、泥が自分で沈む速さで寝かせる。病の年には、それで井戸をひとつ守った。
夜のうちに寝かせ、朝に水を汲ませたこと。汲みに来る人が列を作り、一人に一桶と決めたこと。自分も熱を出して、それでも井戸のそばを離れなかったこと。そういうことが、傾いた字で書いてあった。
エルは、いちばん傾いた一枚を、手のひらで押さえた。熱のある手が書いた字だ。
エルは、手引きの頁を、井戸番の頁へ寄せた。棒のかざし方は同じだった。手引きには一息、井戸番のほうには一日、とある。
「次の日にはまた濁る」の行を、もう一度読んだ。
手で書いた頁の最初の一枚は、読めなかった。印刷の最後の頁と、裏同士が糊で貼り合わされている。四十年前に一冊にしたとき、継ぎ目を隠すために貼ったのだろう。井戸番の最初の言葉は、糊の下にある。
手帳に書いた。井戸番、病の年、ゆっくり、最初の一枚は糊の下。
「二冊に戻せばいい」
声に出すと、簡単に聞こえた。
糸はもうない。別々に綴じる。それだけだ。
手で書いた頁は手で書いた頁の順に、印刷の頁は印刷の頁の順に。本は、毎朝そうしてほしいと言っている。
「原本は、お出しできません」
エミーリエは、列伝を借りようとしたあの日と同じ声で言った。それから、少しだけ続けた。
「修繕のためなら、別です。あしたは授業がない日ですね。荷運びの者に、町まで送らせます」
エルは手帳に、元どおり、と書いた。
その字の横に、小さく「?」を足そうとして、やめた。




