朝の糸
見習いの最初の仕事は、札を付けることだった。
寄贈の本の木の札に、その本の来歴を書く。誰が、いつ、どこから納めたか。エミーリエの帳面を写すだけなのに、字が曲がると書き直しになる。
「札は、本より長く残ることがあります。本が傷んで写しに替わっても、札は残る」
だから丁寧に、とエミーリエは言った。十二枚目で、エルの指にはもう、糊の匂いが染みついていた。
「殿下、こちらは司書どのへ。町の工房からの戻りで」
荷運びの男が、布に包んだ本を一冊、閲覧机の端に置いた。男の袖から、川の匂いがした。
「工房の親方が、言づてを。今度ほどけたら、糸のせいではない、と」
「ほどける?」
「さあ。私は運ぶだけで」
男は目だけで笑って、荷車のほうへ戻っていった。
エミーリエが布をほどいた。厚くはない。革の表紙は古いが、背は新しい糸で綴じ直されていた。
「『澄まし水の手引き』です。二度目の修繕から戻りました」
「二度目?」
「この本は、棚で、ひとりでに糸がほどけました。工房で綴じ直してもらうと、戻った晩にまたほどけた。それで二度目に出しました。二度目も、同じことにならないとは限りません」
エルは本を手に取ろうとして、やめた。届いたばかりの本は、エミーリエが先に見る。
「札は、ありますか」
「四十年前のものが」
エミーリエは棚の端から木の札を抜いて、机に置いた。古い字で、川上の製紙工房、寄贈、一冊、とある。札を書いた人の名は、エルの知らない名だった。
「二度目は、工房の親方が糸を変えたそうです。麻を、蝋を引いた麻に」
エミーリエは本を机の真ん中に置き、上から布をかけた。
「今夜から、この本を預かってください。朝、最初に見るのはあなたです」
「ぼくが、ですか」
「朝いちばんに棚を見回るのは、見習いの仕事です。それに」
エミーリエは、札の束に目をやった。
「あなたは、続きを知りたがる人です。この本は、続きのある本かもしれません」
エルは札の束を置いた。頼まれたことは、前にもある。預けられたのは、初めてだった。
夕方の片づけの熱が流れると、古い回廊のカルロスは、いつもの敷石の上にいた。
エルは聞き書きの続きを読んだ。ヨーゼフが弟子を取ったこと。川の町から出てきた子を、よく雇ったこと。
「糊を煮るところから、だな」
「書いてありません。でも、きっとそうです」
カルロスは笑った。それから、きみの仕事はどうだい、と聞いた。
「札を付けてばかりです。今日は十二枚」
「札を付けるのは、本の居場所を決めることだろう。悪くない」
居場所。エルは、その言い方を手帳に書きたくなって、やめた。手帳は仕事のことを書くものだ。
預かった本のことも、話そうとして、やめた。まだ何も起きていない。
「きみは、何か言いかけると、札の話に戻るな」
カルロスが言った。
「……預かった本があるんです。まだ何も起きていないので、起きてから話します」
「起きるのか」
「分かりません」
帰りぎわに、カルロスが聞いた。
「その本には、何が書いてあるんだい」
「水を澄ませる術の手引きです。紙を作る工房で使うものだそうです」
「紙か」
カルロスは、格子の上の暗がりを見た。
「ハルデにも、紙を漉く家があった。川の水が澄んだ日にしか漉けない、と言っていた。澄ませる術があれば、毎日漉けただろうに」
「カルロスさんの頃には、なかったんですか」
「私の頃には、聞かなかった。あったのかもしれない。私が知らなかっただけで」
知らなかっただけで、という言い方を、エルは覚えておくことにした。知らないことと、ないことは、違う。
「見習いの手は、糊の匂いがするな」
「取れないんです」
「ヨーゼフも、そうだったろう。三年は取れない」
カルロスは笑ったが、その笑いは、少し遅れて出てきた。
翌朝、エルは授業の前に小図書館へ走った。
扉の鍵は、エミーリエが開けたばかりだった。帳面の前に立ったまま、エミーリエは机のほうを見ない。見ないように、しているのだと分かった。
布は、昨日のままだった。
めくると、革の表紙が机の上にあり、その横に、本文の紙が一山、きちんと重ねて置いてあった。角が揃っている。
糸は、表紙の背に残っていた。切れてはいない。結び目だけがなくなって、麻の糸が二本、ほどけたまま垂れている。
誰かが、ほどいた。
そう思ってから、エルは窓を見た。閉まっている。掛け金も、下りたままだ。
扉の鍵はエミーリエが持ち帰る。夜の小図書館に入れる人はいない。
湿気で糸が緩んだのなら、紙は散る。揃えはしない。
手帳を開いて、線を引いた。
聞いたこと。前に二度、ほどけた。一度は棚で、一度は直して戻った晩に。工房の親方は、糸のせいではないと言う。
確かめたこと。糸は切れていない。結び目がない。紙は揃えて重ねてある。
外れた考え。湿気。
次に確かめること。
そこで手が止まった。何を確かめればいいのか、まだ分からない。
「三度目ですね」
エミーリエが、机の前に来ていた。驚いた顔ではなかった。
「前の二度も、こうでしたか」
「こうでした。紙は、いつも揃えて重ねてありました」
「散らかっていたことは」
「一度も」
「夜に、誰か入れますか」
「鍵は私が持ち帰ります。合鍵は、帳場の鍵番が預かっています」
鍵番が、夜中に鍵を貸す相手はいない。エルは手帳の端に、鍵、と書いて、線で消した。
「エミーリエは、どう思いますか」
「分かりません。分からないことは、分からないままにしておきます。あなたが見つけるまで」
それは、信じてくれているのか、放っておかれているのか、どちらとも取れた。
午後、授業が終わると、エルはほどけた本を自分で綴じ直すことにした。
まず、机の上の紙の山を、本の順に戻す。
山のいちばん上の一枚を手に取って、エルは手を止めた。本の最初の頁ではない。隅に番号がなく、どこの頁なのか、すぐには分からない。
しかも、字が違う。ほかの頁は印刷の字で、行がきちんと揃っている。この一枚は、手で書いた小さな字で、行が少し傾いている。
印刷の本の中に、手で書いた頁が混じっている。
下をめくると、同じ小さな字の頁が、続いていた。二枚、三枚。まだある。
「綴じる前に、枚数と並べた順を控えておきなさい」
エミーリエが針を差し出した。
手で書いた頁は二十六枚あった。エルは、その中の順は変えずに、印刷の頁の後ろへ重ねた。手帳にも、その順で書き留めた。
エミーリエに針と糸の通し方を教わる。糸は麻で、先に蝋を引いて固くする。
穴は、背に沿って四つ。薄い本は四つで足り、厚い本になると六つ、八つと増えるのだという。この本は、薄いほうだ。糸を背の穴に通して、表から裏へ、裏から表へ。
「針は、紙に逆らわないように。穴は、もうあいています。針が穴を探すのではなく、穴に針を届けるのです」
言われたとおりにしても、糸は背の途中でたるんだ。引けば、紙が斜めにずれる。針が紙を抜ける音が、一針ごとに違う。
最後に結ぶ。手は、札に字を書くときより震えた。三度やり直して、四度目で糸が締まった。
「綴じるのは、初めてにしては悪くありません。ほどくほうは、誰かが上手なようですが」
エミーリエが冗談を言うのを、エルは初めて聞いた。
結び目の上に、蝋燭の蝋を一滴落とす。印だ。ほどかれれば、蝋が割れる。
「箱に入れて、鍵をかけてもらえますか」
エミーリエは古い木箱を出し、本を入れた。
エルは手帳を読み返した。印刷の頁が前。手で書いた二十六枚が後ろ。
「閉めますよ」
エミーリエの声に、エルは頷いた。
エミーリエは鍵をかけた。鍵は二つある。ひとつはエミーリエが、ひとつはエルが持った。
「それから、朝の見回りは、見習いの仕事です。あなたが来るまで、私は箱に触れません」
「次に確かめること」へ、エルは一行足した。
手で書いた二十六枚が、あしたも後ろにあるか。
あしたの朝、最初に見るのはぼくだ。
箱の鍵を、エルは上着の内側に入れた。胸のあたりで、鍵が小さく鳴った。




