【エピローグ】返ってきた布
朝の花壇は、まだ露で濡れていた。
庭師の女は、客間の下の花壇で、落ち葉を集めていた。手袋の指先が、集めるうちに重くなる。
「あの、これを」
声のほうを見ると、エルが生け垣の角に立っていた。両手に、畳んだ布を載せている。雨の日に貸した、油を引いた布だった。
上着が、昨日までのものと違う。昨日までの上着は、袖の端が親指の幅だけ黒かった。洗い場へ回ったのだろう。洗い場の者は、焦げを見れば、人に言う。
「お返しします。濡れずに済みました。写しも、手帳も」
「それは、ようございました」
布は、角を揃えて、丁寧に畳んであった。女は手袋を外して、受け取った。
布の真ん中に、冷たさが残っている。畳み目を開くと、内側がまだ湿っていた。雨の日のまま、乾かさずに畳んだのだ。
そのまま受け取って、あとで自分が干せばいい。そう思った。それから、思い直した。
「殿下。この布は、紙を守る布でございます」
女は、布を半分だけ広げて見せた。
「湿ったまま畳みますと、畳み目からかびます。かびたところは、次の雨で水を通します。お使いになったあとは、広げて、乾いてから畳んでください。次に使うときに、役に立つように」
エルは、布と女の顔を見比べた。それから、言われたことを、小さな声で繰り返した。
「乾いてから、畳む」
エルは布を受け取り直して、全部広げた。
「どこに干せば」
「そこの生け垣の、日の当たる側に。あとは私が」
エルは、言われたとおりに布を掛けた。曲がっていた。女は直さなかった。
袖のことは、エルは何も言わなかった。女も、聞かなかった。庭師が殿下の袖を知っているはずはない。
「ありがとうございます。今日から、小図書館なので」
言い終わる前に、もう走っていた。走ると転びますよ、と言う暇はなかった。
荷運びの男が、空の荷車を押してきたのは、そのすぐあとだった。
「殿下は」
「小図書館へ。今朝から、見習いだそうで」
男は頷いて、荷車の向きを変えた。今日の当番は、男の番だ。
「布を返しに来られました。乾かしてから畳むように、と申し上げました」
「覚えますかな」
「小さな声で、繰り返しておられました」
男は、荷車の柄から手を離さなかった。
「ゆうべ、上に出した」
いつもどおりにしようとしているのが分かる声だった。
「火が殿下の足元まで来た。袖が焦げた。止めたのは親方で、私は一歩遅れた。そのとおりに書いた」
「親方も」
「親方は、その日のうちに自分で出している。殿下に頼まれて火を使った、こぼしたのは自分だ、と」
女は、生け垣に掛けた布を見た。乾くまで、まだかかる。
「沙汰は」
「分からん。試しは二度とさせるな、とは言われるだろう。私を外すかもしれん。親方は、工房を離れるかもしれん」
「殿下は、何と」
「何も。手帳に、できなかった、と書いておられた。それから親方に、試しはここまでにします、と」
「殿下は、火から下がらなかった」
女が言うと、男は少しのあいだ黙った。
「下がらなかった。人が止めるより先に、動かない子だ。それも書いた。次に立つ者が、知っておくことだ」
次に立つ者、と男は言った。自分ではない誰か、という言い方だった。
「私からも、出します」
「何を」
「雨の日に、殿下が回廊へ行くのを、布を渡して通しました。止めなかった。同じ紙に載せてください」
「あれは、試しの二日あとだ。あの日は、火を使っていない」
「止めなかったのは、同じです」
男は、荷車の柄を握り直した。
「殿下が止められなかった、と書くより、私たちが止めなかった、と書くほうが本当です。止めれば、殿下は何も調べられない。それを分かっていて、二人とも止めなかった」
男は、しばらくして頷いた。
「書いておく」
それだけ言って、荷車を押していった。車輪が低く軋む。小図書館のほうへ曲がるまで、女はその音を聞いていた。
花壇に戻って、落ち葉の残りを集めた。手袋は、もう中まで濡れていた。
女は手袋を外し、生け垣の、油を引いた布の隣に掛けた。曲がった布と、指の形に膨らんだ手袋が、並んで日に当たっている。
布が乾くまで、しばらくかかる。それまで、手は空く。女は、濡れた手を腰の布で拭って、花壇の縁に腰を下ろした。
両手を、膝の上で休める。殿下が走っていった角を見ていなくていい朝は、久しぶりだった。
久しぶりで、少し怖かった。沙汰が来れば、この朝が、毎朝になる。




