一人のその後
その晩のうちに、エルは回廊の人のことを、初めから全部エミーリエに話した。カルロスという名のことも、親方が思念と呼んだことも、袖を焦がしたことも。
エミーリエは最後まで口を挟まなかった。
「話してくださって、助かりました。知らないままでは、私は出す本を間違えるところでした」
次の日の午後、閲覧机には三つのものが並んだ。列伝の写し。エルの手帳。取り置きの札を外した聞き書き。
「同じ火事かどうか。まず、揃うところを数えましょう」
エミーリエが言い、エルが読み上げた。
土地。列伝はハルデ。聞き書きは、ハルデの倉町。
時。どちらも大火の年。
道。カルロスさんは、倉の裏の水路沿いを人が走っていったと言った。聞き書きの人は、その道を走った。
火。カルロスさんは炎を川岸へ運んだ。聞き書きの人は、火を胸に抱えた人が川のほうへ歩いていくのを見た。
「四つ、揃いました。同じ火事です」
「同じ火事と考えてよさそうです」
エミーリエは静かに言い直した。
「これは、年を取ってからの思い出話を、旅の人が聞いて書いたものです。覚え違いも、聞き違いもあります。この人がそのあとも生きて働いたことは、別の記録とも突き合わせておきたい」
語り手は、王都で製本屋になったと言っている。名はヨーゼフ。
「製本組合に、台帳があるはずです」
問い合わせの文は、エルが自分で書いた。
名前だけでは足りません、とエミーリエは言った。ハルデの生まれであること。大火のあとに王都へ来たこと。
終わりに、自分の名を書いた。エルンスト・ロープマイヤー。家の名まで付けた正式の名を自分で書くのは、久しぶりだった。城では、誰もがエルと呼ぶ。
エミーリエが署名を添え、手紙は組合へ出された。
返事を待つあいだ、エルは授業のあとに小図書館へ通い、寄贈本の木の札を帳面と突き合わせる仕事を手伝った。
札には、その本がどこから来たのかが書いてある。本にも、来た道があるのだった。
一度だけ、夕方の片づけに合わせて回廊へ行った。
「読んでいる本があります。でも、まだ確かめている途中です。確かめられたら、話します」
早く知らせたかった。けれど、確かめていないことを、確かめたように話したくはなかった。
「待つのは慣れているよ」
カルロスは笑った。その笑い方が、少しだけ寂しそうに見えた。
三日目に、台帳の写しが届いた。
ヨーゼフは、二人いた。
一人目の行に、指を置いた。見覚えのある年号が、そこにある。
「この人です」
言って、立ち上がっていた。夕方の片づけまで、まだ間がある。今から写しを作れば、回廊へ持っていける。
エミーリエは、何も言わなかった。黙って、台帳の次の行を指さした。
二人目。ハルデの生まれ。大火の二年あと、十六で徒弟に入る。のちに職人、親方。
一人目に、目を戻す。生まれは王都。組合に入ったのは、大火より前だ。
エルは、座り直した。立ち上がった椅子が、まだ少し温かかった。
「大火の年に十四。二年あとなら、十六」
「合います」
声が少し震えた。
この人は逃げ延びて、王都へ来て、本を作る仕事をした。二つの記録が、紙の上で同じ人を指している。
エミーリエは寄贈の帳面を開いた。聞き書きも列伝も、旅人の孫にあたる人が、祖父の蔵書としてまとめて納めたものだった。
聞き書きの終わりには、書き上げた年が記してある。列伝にあるカルロスの亡くなった年より、あとだった。
あの人が探していた頃、この話は、まだどこにも書かれていなかったのだ。
聞き書きには「わしらは走った」とある。その「わしら」が何人で、誰だったのかは、最後まで読んでも出てこなかった。
全員が無事だった、とは書けない。分かったのは、一人のことだけだ。
それでも、持っていこう。エルは工房へ行き、次の片づけの時刻を親方に尋ねた。
「あすの夕方。雨でも流します」
親方はそう言って、エルの手帳に目をやった。
「できなかったことは、書きましたかな」
「書きました。何が足りなかったかも。……試しは、ここまでにします。頼みたいのは、流す時刻だけです」
親方は、ふむ、と言った。今度の「ふむ」は、前より少し短かった。
明くる日の夕方は雨だった。中庭沿いの通路に、吹き込んだ雨が筋を引いている。
「殿下、紙が濡れます。これでお包みください」
庭師の女が、油を引いた布を差し出した。
エルは礼を言い、写しと手帳を包んで、胸に抱えた。
古い回廊の床が、ぬくもり始めた。格子の前の空気が揺れる。その揺れの中に、カルロスが立っていた。
「カルロスさん。先に、言わなければならないことがあります」
エルは包みをほどいた。
「術の試しは、あそこまででした。大きな火を運べるところまでは、届きませんでした。それから、ぼくは頼まれたことより、自分が試したいことを先にしました」
「知っていたよ」
カルロスは言った。
「火の話をするときのきみは、目が違ったから」
咎める声ではなかった。
エルは息を吸った。
「そのあとで調べたことがあります。確かめられたところまでです。聞きますか」
カルロスは、すぐには答えなかった。両手を見て、それから、エルを見た。
「聞く」
〈大火の年、わしは十四で、ハルデの倉町におった〉
水路沿いの道が急にあいたこと。走ったこと。
〈一度だけ振り返ると、火を胸に抱えた人が、川のほうへ歩いていくところだった〉
カルロスの両腕が、あの輪の形を作りかけて、止まった。
「振り返った子だ」
声が、掠れていた。
「同じ人だと、ぼくが決めることはできません。でも、土地と、年と、道が揃っています。それから、もうひとつ記録があります」
エルは台帳の写しを読んだ。ハルデの生まれ。十六で徒弟に入り、職人になり、親方になった。
「一人は、生きて王都へ来て、製本の仕事をしました。名前はヨーゼフです」
「ほかの人たちは」
「分かりません」
でも、は付けなかった。きっと無事です、とも。
金具の音だけが、しばらく続いた。
「分からない、と言ってくれたのは、きみが初めてだ」
カルロスは言った。
「一人は、分かったんだな」
術のことは、聞き返さなかった。
「その人、どんな本を作っていたんだろう」
「そこまでは、この記録には。でも、仕事を覚えた頃の話ならあります」
「それを、聞かせてくれないか」
エルは頁をめくった。
〈初めの三年は糊を煮るばかりで、針は持たせてもらえなんだ。王都の水はハルデより固うて、糊の具合が違う。それを覚えるのに、また一年かかった〉
糊か、とカルロスが声を出さずに笑った。
「親方にまで、なったのか。あの子が」
エルは読み続けた。ヨーゼフが弟子を取ったこと。川の町から出てきた子を、よく雇ったこと。
カルロスは一行ごとに、小さく頷いた。
金具の音がやむ前に、カルロスは言った。
「続きは、次に」
「次の片づけの日に、来ます」
姿が薄れても、エルはもう駆け寄らなかった。床のぬくみが引くまで、そこに立っていた。
胸の前の包みは、来たときより軽い気がした。
小図書館には、まだ明かりがあった。
「エミーリエ。ぼくを、ここで働かせてください。続きを探したいんです。ほかの人たちのことも」
「見習いの仕事は、読むことより、札を付けることのほうが多いですよ」
「それでも」
「では、まずご両親に。鍵と古い本は、これまでどおり私が預かります」
その夜、エルは折り目だらけの紙を広げた。厩舎、薬草園、帳場、術具の工房。その下の余白に、自分の字で「小図書館」と書き足して、丸で囲んだ。
翌朝、その紙をエミーリエに渡した。
「父も母も、エミーリエが引き受けてくれるなら、と言いました」
「お引き受けします」
エミーリエは紙を二つに折って、帳面に挟んだ。
「では見習いさん、最初の仕事です」
二度目に頼まれたことは、札を付けることだった。
渡されたのは、木の札の束だった。いちばん上の一枚には、まだ何も書かれていない。
閲覧机の上では、旅人の聞き書きが、栞を挟んだまま待っている。




