小さな火しか運べない
真昼の回廊で、エルはゆうべのことを話した。
カルロスはすまなそうな顔をした。
「来てくれたのか。悪いことをした。気がつくと、私はいないんだ。気がつくと、またここに立っている」
どうしてなのかは自分にも分からない、とカルロスは言った。
試しの日取りを伝えると、その日にいられるといいが、と笑った。
エルは手帳を開いた。
「いなくなる前のことで、覚えていることはありますか」
「そうだな。足元が、先に冷える気がする」
書き留めて、その上に、会えた日と会えなかった日を並べた。夕方、夕方、夜、昼。
時刻は揃わない。それなら、時刻のほかに何が揃っているのか。
会えた日は、床が温かかった。壁の奥で金具が鳴っていた。会えなかった夜は、床が冷たくて、音がしなかった。
午後、工房でそれを話すと、ルートヴィヒ親方は手を止めた。
「床のぬくみは、熱の片づけですな。厨房や浴場で使い終えた火の熱を、術具で集めて、壁の中の道から外へ逃がす。今は本来の道を直しておるので、古い回廊の口から抜いております。縄を外したのも、そのためで」
「ゆうべは」
親方は帳面をめくった。
「流しておりません。弁の手入れで、夕方の分を休みました。今日の昼は、厨房の大掃除で臨時に一度」
手帳の表と、ぴたりと重なった。
「熱が流れているあいだだけ、あの人はいる……」
「それは私には分かりませんな。ただ、流す時刻なら分かる。試しは、夕方の片づけに合わせましょう。その時刻に会えたら、殿下の考えはひとつ確かめられる」
試しの日の夕方、床がぬくもり始めると、カルロスは本当にそこにいた。エルは手帳に丸をつけた。
「熱が流れているあいだだけ、カルロスさんはここにいるみたいです」
「そうか。道理で、いつも足元が温かい」
荷運びの男が、工房の道具を運び込んだ。砂の桶、水の桶、鉄の火籠、石の盆が二つ。足場の板は外へ出された。
「ルートヴィヒと申します。術具の修繕をしております」
「カルロスです。昔、この城で火を扱う仕事をしていました」
親方は一度だけ荷運びの男と目を合わせ、それから何も聞かずに道具を広げた。柄の先に黒い石をはめた、鉄の棒のような術具だ。
「力は、この石に入っている分だけです。尽きたら、そこでおしまい」
「道具で、やるのか」
カルロスは棒の先の石を、珍しそうに見ていた。
蝋燭に火がともされた。
エルは手帳の手順を読み上げる。炎の行き先を作る。寄ってきたものを包む。包んだまま運ぶ。
親方が術具をかざした。炎は棒のほうへ傾いたが、芯を離れない。
「引いておられる」
カルロスが言った。
「先に行き先を。炎の上、拳ひとつのところに」
言いながら、カルロスの指が釣られたように動いた。何も起こらなかった。
親方が棒の先をわずかに上げる。
炎が、芯からふっと浮いた。
拳ほどの火の球が、棒の先に丸くまとまっている。蝋燭の芯からは、細い煙が一本昇るだけだ。
「そうだ。その形だ」
カルロスが小さく言った。
親方は三歩進んで、球をもうひとつの盆の上に置いた。球は五つ数えるあいだ燃え、しぼんで消えた。
「鍛冶の寄せ火は引くものだが、これは先に口を開けてやるのか」
親方が、独り言のように言った。
「運べた!」
エルは書き留めた。拳ほど。三歩。五つ。
拳ほどの火が運べるなら、頭ほどの火も運べる。頭ほどの火が運べるなら、家一軒の火だって、同じやり方を大きくすればいい。
「次は火籠で。これができれば、火事でも」
言いかけたエルを、親方は目で抑えた。
「殿下は、そこから動かない」
火籠の薪に火が移され、炎が膝の高さまで育つ。
親方が術具をかざす。炎はまとまり、籠を離れた。人の頭ほどの球だ。
ところが、薪は燃え続けている。取ったそばから、次の炎が立った。親方はそれも寄せた。球が膨らむ。
また次の炎。球の縁が揺らぎ、一筋、外へこぼれた。
こぼれた火は、消えなかった。床の石の上を低く這って、エルの足元へ来た。
下がらなければ、と思うより先に、横からカルロスが出た。両腕が、輪の形に開く。何度も見た、水瓶を抱える形だった。
炎は、その腕を通り抜けた。
腕の内側に、何も残らない。火は、腕のあった場所を過ぎて、なお這ってくる。
「止めてください」
カルロスの声と、親方が球を砂の桶に落とすのと、同時だった。鉄の蓋が火籠にかぶせられ、床の火には水の桶が傾けられた。
石の床が、じゅっと鳴った。
回廊に、焦げた匂いだけが残った。エルの袖の端が、親指の幅だけ黒くなっている。熱かった覚えは、なかった。
カルロスは、自分の両腕を見ていた。輪の形のまま、何も抱えていない腕だった。
「昔なら、抱えられた」
それだけ言って、腕を下ろした。
「蝋燭は、取れば終わりです」
声は、もういつもの声だった。
「燃え続ける火は、取ったそばから次が来る。抱えているあいだじゅう、寄せ続けなければならない。大きさの話ではないんだ」
「カルロスさんは、どうやって寄せ続けたんですか」
「自分の腕で、としか言えない。同じことを道具にさせる手順は、私も知らないんだ」
「この道具と手順では、ここまでですな」
親方は石を布で拭った。
「殿下。できなかった、と書いておいてください。何が足りなかったかも」
エルの手は、すぐには動かなかった。
悔しかった。うまくいけば、あの人に見せられた。それが、頼まれたことへの返事にもなると思っていた。
壁の奥で、金具の音がやんだ。
カルロスの輪郭が、湯気のように緩んだ。
「エル。今日は、ここまでらしい」
「カルロスさん、ぼくは」
声が先に遠くなり、姿が薄れて、格子のそばには誰もいなくなった。言いかけた言葉は、誰もいない格子の前に残った。
エルは格子へ駆け寄りかけた。
「殿下、そこはまだ熱うございます」
荷運びの男が、片腕で前を塞いでいた。
怖くはなかった。ただ、さっきまで声のあった場所が、もう温かいだけの空気になっている。
「思念でしたか」
親方が低く言った。
「人の思いが、場所に残って形を持つ。話には聞きますが」
物語の中でなら、エルも読んだことがあった。
「また、会えますか」
「熱を流せば、おそらく。今日がそうでしたからな」
おそらく、と親方は言った。
手帳に書く。金具の音がやむ。姿が消える。どれだけの熱が、どれだけの時間いるのかは、まだ分からない。
「流す時刻は、またお知らせします」
親方はそれだけ言って、火籠を持ち上げた。
その晩、小図書館にはまだ明かりがあった。エミーリエは帳面を閉じるところだった。
「取り置きの本を、読みたいんです」
「明かりを足しましょう」
エルは閲覧机で手帳を開き、真ん中に線を一本引いて、左右に分けて書いた。
頼まれたこと。逃げた人たちは、どうなったか。
自分が試したかったこと。火を抱えて運ぶ術。
右側には、三日ぶんの字が詰まっていた。拳ほど。三歩。五つ。
できなかった。足りなかったもの。
左側には、見出しのほかに、何もなかった。
袖の焦げが机の端に触れて、黒い粉を落とした。
エミーリエの紙切れを出す。窓際の棚の二段目。取り置きの札を挟んだ薄い本は、そこで待っていた。
終わりのほうの見出し、「大火を語る」。
〈大火の年、わしは十四で、ハルデの倉町におった。倉の裏の水路沿いの道は火で塞がっておったが、それが急にあいた。わしらは走った。一度だけ振り返ると、火を胸に抱えた人が、川のほうへ歩いていくところだった〉
指が止まる。
抱えた、と書いてある。
あの日、ぱらぱらとめくって、あとで読むと言った本だった。目印は、初めからここにあったのだ。
本を、閉じかけた。三日のあいだ、この一行が机の端で待っていたことを、見なかったことにしたかった。
それでも、閉じなかった。閉じれば、逃げたことになる。
〈そのあと王都へ出て、製本屋の徒弟になった〉
逃げた人が、生きて、別の町で働いていた。
同じ火事だ。同じ人だ。そう言いかけて、エルは口を閉じた。これまでの自分なら、もう決めていた。
その一行に指を置いたまま、顔を上げる。
「エミーリエ。一緒に、確かめてもらえますか」




