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王家の小図書館  作者: 朝庭零
火を抱えた人
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3/20

小さな火しか運べない

 真昼の回廊で、エルはゆうべのことを話した。

 カルロスはすまなそうな顔をした。

「来てくれたのか。悪いことをした。気がつくと、私はいないんだ。気がつくと、またここに立っている」

 どうしてなのかは自分にも分からない、とカルロスは言った。

 試しの日取りを伝えると、その日にいられるといいが、と笑った。

 エルは手帳を開いた。

「いなくなる前のことで、覚えていることはありますか」

「そうだな。足元が、先に冷える気がする」

 書き留めて、その上に、会えた日と会えなかった日を並べた。夕方、夕方、夜、昼。

 時刻は揃わない。それなら、時刻のほかに何が揃っているのか。

 会えた日は、床が温かかった。壁の奥で金具が鳴っていた。会えなかった夜は、床が冷たくて、音がしなかった。


 午後、工房でそれを話すと、ルートヴィヒ親方は手を止めた。

「床のぬくみは、熱の片づけですな。厨房《ちゅうぼう》や浴場で使い終えた火の熱を、術具で集めて、壁の中の道から外へ逃がす。今は本来の道を直しておるので、古い回廊の口から抜いております。縄を外したのも、そのためで」

「ゆうべは」

 親方は帳面をめくった。

「流しておりません。弁《べん》の手入れで、夕方の分を休みました。今日の昼は、厨房の大掃除で臨時に一度」

 手帳の表と、ぴたりと重なった。

「熱が流れているあいだだけ、あの人はいる……」

「それは私には分かりませんな。ただ、流す時刻なら分かる。試しは、夕方の片づけに合わせましょう。その時刻に会えたら、殿下の考えはひとつ確かめられる」


 試しの日の夕方、床がぬくもり始めると、カルロスは本当にそこにいた。エルは手帳に丸をつけた。

「熱が流れているあいだだけ、カルロスさんはここにいるみたいです」

「そうか。道理で、いつも足元が温かい」

 荷運びの男が、工房の道具を運び込んだ。砂の桶《おけ》、水の桶、鉄の火籠、石の盆が二つ。足場の板は外へ出された。

「ルートヴィヒと申します。術具の修繕をしております」

「カルロスです。昔、この城で火を扱う仕事をしていました」

 親方は一度だけ荷運びの男と目を合わせ、それから何も聞かずに道具を広げた。柄《え》の先に黒い石をはめた、鉄の棒のような術具だ。

「力は、この石に入っている分だけです。尽きたら、そこでおしまい」

「道具で、やるのか」

 カルロスは棒の先の石を、珍しそうに見ていた。

 蝋燭に火がともされた。

 エルは手帳の手順を読み上げる。炎の行き先を作る。寄ってきたものを包む。包んだまま運ぶ。

 親方が術具をかざした。炎は棒のほうへ傾いたが、芯を離れない。

「引いておられる」

 カルロスが言った。

「先に行き先を。炎の上、拳ひとつのところに」

 言いながら、カルロスの指が釣られたように動いた。何も起こらなかった。

 親方が棒の先をわずかに上げる。

 炎が、芯からふっと浮いた。

 拳ほどの火の球が、棒の先に丸くまとまっている。蝋燭の芯からは、細い煙が一本昇るだけだ。

「そうだ。その形だ」

 カルロスが小さく言った。

 親方は三歩進んで、球をもうひとつの盆の上に置いた。球は五つ数えるあいだ燃え、しぼんで消えた。

「鍛冶《かじ》の寄せ火は引くものだが、これは先に口を開けてやるのか」

 親方が、独り言のように言った。

「運べた!」

 エルは書き留めた。拳ほど。三歩。五つ。

 拳ほどの火が運べるなら、頭ほどの火も運べる。頭ほどの火が運べるなら、家一軒の火だって、同じやり方を大きくすればいい。

「次は火籠で。これができれば、火事でも」

 言いかけたエルを、親方は目で抑えた。

「殿下は、そこから動かない」

 火籠の薪《まき》に火が移され、炎が膝の高さまで育つ。

 親方が術具をかざす。炎はまとまり、籠を離れた。人の頭ほどの球だ。

 ところが、薪は燃え続けている。取ったそばから、次の炎が立った。親方はそれも寄せた。球が膨らむ。

 また次の炎。球の縁《ふち》が揺らぎ、一筋、外へこぼれた。

 こぼれた火は、消えなかった。床の石の上を低く這《は》って、エルの足元へ来た。

 下がらなければ、と思うより先に、横からカルロスが出た。両腕が、輪の形に開く。何度も見た、水瓶《みずがめ》を抱える形だった。

 炎は、その腕を通り抜けた。

 腕の内側に、何も残らない。火は、腕のあった場所を過ぎて、なお這ってくる。

「止めてください」

 カルロスの声と、親方が球を砂の桶に落とすのと、同時だった。鉄の蓋が火籠にかぶせられ、床の火には水の桶が傾けられた。

 石の床が、じゅっと鳴った。

 回廊に、焦げた匂いだけが残った。エルの袖の端が、親指の幅だけ黒くなっている。熱かった覚えは、なかった。

 カルロスは、自分の両腕を見ていた。輪の形のまま、何も抱えていない腕だった。

「昔なら、抱えられた」

 それだけ言って、腕を下ろした。

「蝋燭は、取れば終わりです」

 声は、もういつもの声だった。

「燃え続ける火は、取ったそばから次が来る。抱えているあいだじゅう、寄せ続けなければならない。大きさの話ではないんだ」

「カルロスさんは、どうやって寄せ続けたんですか」

「自分の腕で、としか言えない。同じことを道具にさせる手順は、私も知らないんだ」

「この道具と手順では、ここまでですな」

 親方は石を布で拭った。

「殿下。できなかった、と書いておいてください。何が足りなかったかも」

 エルの手は、すぐには動かなかった。

 悔しかった。うまくいけば、あの人に見せられた。それが、頼まれたことへの返事にもなると思っていた。

 壁の奥で、金具の音がやんだ。

 カルロスの輪郭が、湯気のように緩んだ。

「エル。今日は、ここまでらしい」

「カルロスさん、ぼくは」

 声が先に遠くなり、姿が薄れて、格子のそばには誰もいなくなった。言いかけた言葉は、誰もいない格子の前に残った。

 エルは格子へ駆け寄りかけた。

「殿下、そこはまだ熱うございます」

 荷運びの男が、片腕で前を塞いでいた。

 怖くはなかった。ただ、さっきまで声のあった場所が、もう温かいだけの空気になっている。

「思念《しねん》でしたか」

 親方が低く言った。

「人の思いが、場所に残って形を持つ。話には聞きますが」

 物語の中でなら、エルも読んだことがあった。

「また、会えますか」

「熱を流せば、おそらく。今日がそうでしたからな」

 おそらく、と親方は言った。

 手帳に書く。金具の音がやむ。姿が消える。どれだけの熱が、どれだけの時間いるのかは、まだ分からない。

「流す時刻は、またお知らせします」

 親方はそれだけ言って、火籠を持ち上げた。


 その晩、小図書館にはまだ明かりがあった。エミーリエは帳面を閉じるところだった。

「取り置きの本を、読みたいんです」

「明かりを足しましょう」

 エルは閲覧机《えつらんづくえ》で手帳を開き、真ん中に線を一本引いて、左右に分けて書いた。

 頼まれたこと。逃げた人たちは、どうなったか。

 自分が試したかったこと。火を抱えて運ぶ術。

 右側には、三日ぶんの字が詰まっていた。拳ほど。三歩。五つ。

 できなかった。足りなかったもの。

 左側には、見出しのほかに、何もなかった。

 袖の焦げが机の端に触れて、黒い粉を落とした。

 エミーリエの紙切れを出す。窓際の棚の二段目。取り置きの札を挟んだ薄い本は、そこで待っていた。

 終わりのほうの見出し、「大火を語る」。

 〈大火の年、わしは十四で、ハルデの倉町《くらまち》におった。倉の裏の水路沿いの道は火で塞がっておったが、それが急にあいた。わしらは走った。一度だけ振り返ると、火を胸に抱えた人が、川のほうへ歩いていくところだった〉

 指が止まる。

 抱えた、と書いてある。

 あの日、ぱらぱらとめくって、あとで読むと言った本だった。目印は、初めからここにあったのだ。

 本を、閉じかけた。三日のあいだ、この一行が机の端で待っていたことを、見なかったことにしたかった。

 それでも、閉じなかった。閉じれば、逃げたことになる。

 〈そのあと王都へ出て、製本屋の徒弟《とてい》になった〉

 逃げた人が、生きて、別の町で働いていた。

 同じ火事だ。同じ人だ。そう言いかけて、エルは口を閉じた。これまでの自分なら、もう決めていた。

 その一行に指を置いたまま、顔を上げる。

「エミーリエ。一緒に、確かめてもらえますか」


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