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王家の小図書館  作者: 朝庭零
火を抱えた人
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2/20

火を運んだ理由

 写しを上着の内側に入れて、エルは中庭沿いの通路を急いだ。読んで聞かせたら、余白の「?」のことも聞くつもりだった。

 刈り込まれた生け垣の上に、夕方の光が残っている。

「殿下、そちらの側は道具を広げております。こちらをお通りください」

 声をかけたのは、庭師の女だった。通路の片側に、鋏《はさみ》や熊手《くまで》や、土のついた桶《おけ》が並んでいる。

 昼間、小図書館で草木の図譜《ずふ》を読んでいた人だ、とエルは気づいた。

「ありがとうございます。あの図譜の草は、もう植えたんですか」

「あれは、今ある木を枯らさないための勉強でございます」

 女は笑って、熊手を手に取った。

 古い回廊の床は、昨日と同じようにぬくもっていた。青年も、昨日と同じ敷石の上にいた。

「来てくれたんだね、エル」

「見つけました。読みます」

 エルは写しを広げ、声に出して読んだ。

「火球のカルロス。ハルデの大火の折、炎を球にまとめて放つ扱いを工夫した。この工夫はのちに火球の術と呼ばれ、多くの戦場で用いられた」

 それから、描き写した絵を見せた。片腕を伸ばした男と、指先を離れていく火の球。

 余白には、昼間に書いた自分の字がある。あの人の言葉、胸の前に抱えて、運ぶ。本の言葉、球にまとめて、放つ。その下に「?」。

「同じ人の話だと思うんです。でも、ここだけ合わなくて」

 青年は、長いこと写しを見ていた。

「合わなくて当たり前だ。向きが、逆なんだから」

「逆?」

「この絵は、炎を体から離している。私は、寄せたんだ。こちらへ」

 青年の両手が、胸のほうへ何かを引き寄せる形を作った。

 私は、と青年は言った。

「球にまとめるところまでは合っている。それを遠くへ飛ばす工夫は、あとから誰かが足したんだろう。戦《いくさ》では、そのほうが役に立つ。それは分かる」

 青年は絵から目を上げた。

「けれど、あのとき私がしたかったのは、人を逃がすことだった。……火球の、か。カルロスは、私の名だ」

 エルは写しを見た。見出しの下に、自分で写した古い年号が二つ並んでいる。生まれた年と、亡くなった年だ。

 目の前の人は、どう見ても若かった。

 聞こうとして、口を噤《つぐ》んだ。聞けば、この人の言葉を疑うことになる。

「驚かせたね」

 カルロスのほうが言った。

「私にも、分からないことのほうが多いんだ」

 エルは首を振って、別のことを尋ねた。

「カルロスさんは、この本に、何が書いてあってほしかったんですか」

 カルロスはすぐには答えなかった。格子の奥で、金具が鳴った。

「そのあいだに逃げた人たちは、どうなっただろう」

 独り言のような声だった。

「私が炎を川岸へ運んでいるあいだに、倉の裏の水路沿いを、何人も走っていった。背中しか見ていない。いや、一人だけ、振り返った子がいたな。きみくらいの背丈だった」

 カルロスの目は、エルを通り越して、どこか遠くを見ていた。

「火が収まってから探したよ。何年も。けれど町の半分が焼けて、みな親類を頼ってほうぼうへ散っていた。名前と行き先を、どうしても繋げられなかった」

「抱えて運ぶって、どうやるんですか」

 気がつくと、そう聞いていた。

 カルロスは少し笑って、壁の低いところの格子の、すぐ上を指さした。

「見てごらん」

 斜めに差す光の中を、細かな埃が昇っていく。格子から出る温かい空気に乗って、まっすぐ上へ。

「炎も、ああいう流れに乗っている。だから、引っ張っても来ない。行き先を作ってやるんだ。手元に、炎が来たくなる場所を。来たものは、こぼれないように包む。包んだら、歩く」

「やって見せてください」

「今の私には、術を起こせない」

 カルロスは自分の手のひらを見た。

「何度か試した。知っていることを話すことしか、できないんだ」

 それなら、誰かにやってもらえばいい。エルの頭は、もう先へ走っていた。

 本の絵は投げている。この人は抱えたと言う。やってみれば、どちらが本当か分かる。術がちゃんと働くのなら、その人たちは逃げられたはずだ。

「試してみます。術具の工房に頼んで」

「逃げた人たちのことは」

「それも調べます」

 カルロスは、しばらく黙っていた。

「頼んでいいのか、分からなくなってきた」

「どうしてですか」

「生きていた頃、何度も聞いたんだ。あの人たちは、どうなったか、と。聞かれた人は、みな、きっと無事だ、と言った。それを聞くのは、もういい」

 エルは頷いた。頷きながら、頭の中では、工房に頼む火の大きさを決めていた。

 嘘《うそ》ではなかった。ただ、順番をもう決めていた。

 夕餉《ゆうげ》の鐘が鳴って、エルは駆けだした。

 入口で振り返ると、カルロスはまだ、自分の手のひらを見ていた。


 翌日、授業が終わるとすぐ、エルは小図書館でエミーリエに話した。あの人が自分をカルロスと名乗ったことだけは、うまく言えなくて黙っていた。

「そのかたが知りたいのは、逃げた人たちのその後なのですね」

「はい。でも先に、術を確かめたいんです。本当に抱えて運べるのか。運べるのなら、その人たちは逃げられたはずですから」

 そうですか、とエミーリエは言った。昨日と同じ言い方だった。

 棚から火の扱いを書いた本を二冊出し、術具の工房の親方に宛てて短い手紙を書く。それから、紙切れをもう一枚。

「取り置きの本は、窓際の棚の二段目に移しました。ハルデの話は、終わりのほうの『大火を語る』という見出しから。読むときに迷わないように」

 エルは礼を言って、紙切れを手帳に挟んだ。開いたのは、火の本のほうだった。

 鍛冶《かじ》の炉の中で、炎を片側へ寄せる術の図がある。「寄せ火」というらしい。カルロスという人は、これを炉の外へ持ち出して、人の背丈より大きな火を相手にやったことになる。

 頁《ページ》をめくる手が速くなった。人の話より、図のほうがずっと早く読める。


 工房は、鉄と油の匂いがした。見学のとき、壊れた術具がどこから来たのかばかり尋ねて、親方に呆れられた場所だ。

 ルートヴィヒ親方は手紙を読み、エルの話を最後まで聞いた。

「その御仁《ごじん》は、回廊から動けんのですな。なら、場所は回廊で。石の床は都合がいい」

 それから、エルの顔を見た。

「確かめたいことを、一言で言うと」

「炎を、抱えて運べるかどうかです」

「運べたら、何が分かります」

「……術が本当だと、分かります」

 親方は、ふむ、と言っただけだった。指を二本立てる。

「火は二つ。小さいのは蝋燭、大きいのは薪《まき》を入れた火籠《ひかご》。それより大きな火はやりません。術を使うのは私で、殿下は手を出さない。それでよければ、三日あと。手が空きます」

「もっと大きな火では」

「小さな火で分からんことは、大きな火ではもっと分かりませんな」

 エルは手帳に、三日あと、と書いた。


 その晩、夕餉のあとで、エルは回廊へ走った。三日あとに試せる、と早く伝えたかった。

 回廊は暗かった。細い窓の外はもう夜で、格子のそばには誰もいない。

「カルロスさん」

 声は石に吸われた。

 しゃがんで床に手を当てる。冷たい。金具の音もしない。

 修繕の人なら、夜は帰る。けれどあの人は、ここを離れられないと言ったのだ。

 首の後ろが、すうっと寒くなった。

 しばらく待って、エルは引き返した。会う時刻を決めていなかったことに、そのとき気づいた。

 頼んでいいのか分からない、と言った人を、暗い回廊に探している。頼まれたほうが、勝手に走っていった。


 次の日の昼、授業から戻る途中で、足の裏がぬくもった。

 回廊の入口の、あの敷石だった。壁の奥で、かたん、と音がする。

 厨房《ちゅうぼう》の者が二人、灰の桶を提げて通り過ぎた。昼の大掃除が済んだところらしい。

 まさか、と思いながら、エルは回廊を覗いた。

 真昼の光の中に、カルロスが立っていた。

 日が暮れてからしか会えない人だと、エルはいつの間にか決めていた。

 足の裏は、まだ温かい。


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