火を運んだ理由
写しを上着の内側に入れて、エルは中庭沿いの通路を急いだ。読んで聞かせたら、余白の「?」のことも聞くつもりだった。
刈り込まれた生け垣の上に、夕方の光が残っている。
「殿下、そちらの側は道具を広げております。こちらをお通りください」
声をかけたのは、庭師の女だった。通路の片側に、鋏や熊手や、土のついた桶が並んでいる。
昼間、小図書館で草木の図譜を読んでいた人だ、とエルは気づいた。
「ありがとうございます。あの図譜の草は、もう植えたんですか」
「あれは、今ある木を枯らさないための勉強でございます」
女は笑って、熊手を手に取った。
古い回廊の床は、昨日と同じようにぬくもっていた。青年も、昨日と同じ敷石の上にいた。
「来てくれたんだね、エル」
「見つけました。読みます」
エルは写しを広げ、声に出して読んだ。
「火球のカルロス。ハルデの大火の折、炎を球にまとめて放つ扱いを工夫した。この工夫はのちに火球の術と呼ばれ、多くの戦場で用いられた」
それから、描き写した絵を見せた。片腕を伸ばした男と、指先を離れていく火の球。
余白には、昼間に書いた自分の字がある。あの人の言葉、胸の前に抱えて、運ぶ。本の言葉、球にまとめて、放つ。その下に「?」。
「同じ人の話だと思うんです。でも、ここだけ合わなくて」
青年は、長いこと写しを見ていた。
「合わなくて当たり前だ。向きが、逆なんだから」
「逆?」
「この絵は、炎を体から離している。私は、寄せたんだ。こちらへ」
青年の両手が、胸のほうへ何かを引き寄せる形を作った。
私は、と青年は言った。
「球にまとめるところまでは合っている。それを遠くへ飛ばす工夫は、あとから誰かが足したんだろう。戦では、そのほうが役に立つ。それは分かる」
青年は絵から目を上げた。
「けれど、あのとき私がしたかったのは、人を逃がすことだった。……火球の、か。カルロスは、私の名だ」
エルは写しを見た。見出しの下に、自分で写した古い年号が二つ並んでいる。生まれた年と、亡くなった年だ。
目の前の人は、どう見ても若かった。
聞こうとして、口を噤んだ。聞けば、この人の言葉を疑うことになる。
「驚かせたね」
カルロスのほうが言った。
「私にも、分からないことのほうが多いんだ」
エルは首を振って、別のことを尋ねた。
「カルロスさんは、この本に、何が書いてあってほしかったんですか」
カルロスはすぐには答えなかった。格子の奥で、金具が鳴った。
「そのあいだに逃げた人たちは、どうなっただろう」
独り言のような声だった。
「私が炎を川岸へ運んでいるあいだに、倉の裏の水路沿いを、何人も走っていった。背中しか見ていない。いや、一人だけ、振り返った子がいたな。きみくらいの背丈だった」
カルロスの目は、エルを通り越して、どこか遠くを見ていた。
「火が収まってから探したよ。何年も。けれど町の半分が焼けて、みな親類を頼ってほうぼうへ散っていた。名前と行き先を、どうしても繋げられなかった」
「抱えて運ぶって、どうやるんですか」
気がつくと、そう聞いていた。
カルロスは少し笑って、壁の低いところの格子の、すぐ上を指さした。
「見てごらん」
斜めに差す光の中を、細かな埃が昇っていく。格子から出る温かい空気に乗って、まっすぐ上へ。
「炎も、ああいう流れに乗っている。だから、引っ張っても来ない。行き先を作ってやるんだ。手元に、炎が来たくなる場所を。来たものは、こぼれないように包む。包んだら、歩く」
「やって見せてください」
「今の私には、術を起こせない」
カルロスは自分の手のひらを見た。
「何度か試した。知っていることを話すことしか、できないんだ」
それなら、誰かにやってもらえばいい。エルの頭は、もう先へ走っていた。
本の絵は投げている。この人は抱えたと言う。やってみれば、どちらが本当か分かる。術がちゃんと働くのなら、その人たちは逃げられたはずだ。
「試してみます。術具の工房に頼んで」
「逃げた人たちのことは」
「それも調べます」
カルロスは、しばらく黙っていた。
「頼んでいいのか、分からなくなってきた」
「どうしてですか」
「生きていた頃、何度も聞いたんだ。あの人たちは、どうなったか、と。聞かれた人は、みな、きっと無事だ、と言った。それを聞くのは、もういい」
エルは頷いた。頷きながら、頭の中では、工房に頼む火の大きさを決めていた。
嘘ではなかった。ただ、順番をもう決めていた。
夕餉の鐘が鳴って、エルは駆けだした。
入口で振り返ると、カルロスはまだ、自分の手のひらを見ていた。
翌日、授業が終わるとすぐ、エルは小図書館でエミーリエに話した。あの人が自分をカルロスと名乗ったことだけは、うまく言えなくて黙っていた。
「そのかたが知りたいのは、逃げた人たちのその後なのですね」
「はい。でも先に、術を確かめたいんです。本当に抱えて運べるのか。運べるのなら、その人たちは逃げられたはずですから」
そうですか、とエミーリエは言った。昨日と同じ言い方だった。
棚から火の扱いを書いた本を二冊出し、術具の工房の親方に宛てて短い手紙を書く。それから、紙切れをもう一枚。
「取り置きの本は、窓際の棚の二段目に移しました。ハルデの話は、終わりのほうの『大火を語る』という見出しから。読むときに迷わないように」
エルは礼を言って、紙切れを手帳に挟んだ。開いたのは、火の本のほうだった。
鍛冶の炉の中で、炎を片側へ寄せる術の図がある。「寄せ火」というらしい。カルロスという人は、これを炉の外へ持ち出して、人の背丈より大きな火を相手にやったことになる。
頁をめくる手が速くなった。人の話より、図のほうがずっと早く読める。
工房は、鉄と油の匂いがした。見学のとき、壊れた術具がどこから来たのかばかり尋ねて、親方に呆れられた場所だ。
ルートヴィヒ親方は手紙を読み、エルの話を最後まで聞いた。
「その御仁は、回廊から動けんのですな。なら、場所は回廊で。石の床は都合がいい」
それから、エルの顔を見た。
「確かめたいことを、一言で言うと」
「炎を、抱えて運べるかどうかです」
「運べたら、何が分かります」
「……術が本当だと、分かります」
親方は、ふむ、と言っただけだった。指を二本立てる。
「火は二つ。小さいのは蝋燭、大きいのは薪を入れた火籠。それより大きな火はやりません。術を使うのは私で、殿下は手を出さない。それでよければ、三日あと。手が空きます」
「もっと大きな火では」
「小さな火で分からんことは、大きな火ではもっと分かりませんな」
エルは手帳に、三日あと、と書いた。
その晩、夕餉のあとで、エルは回廊へ走った。三日あとに試せる、と早く伝えたかった。
回廊は暗かった。細い窓の外はもう夜で、格子のそばには誰もいない。
「カルロスさん」
声は石に吸われた。
しゃがんで床に手を当てる。冷たい。金具の音もしない。
修繕の人なら、夜は帰る。けれどあの人は、ここを離れられないと言ったのだ。
首の後ろが、すうっと寒くなった。
しばらく待って、エルは引き返した。会う時刻を決めていなかったことに、そのとき気づいた。
頼んでいいのか分からない、と言った人を、暗い回廊に探している。頼まれたほうが、勝手に走っていった。
次の日の昼、授業から戻る途中で、足の裏がぬくもった。
回廊の入口の、あの敷石だった。壁の奥で、かたん、と音がする。
厨房の者が二人、灰の桶を提げて通り過ぎた。昼の大掃除が済んだところらしい。
まさか、と思いながら、エルは回廊を覗いた。
真昼の光の中に、カルロスが立っていた。
日が暮れてからしか会えない人だと、エルはいつの間にか決めていた。
足の裏は、まだ温かい。




