回廊の依頼
「殿下、恐れ入ります。荷車を通しますので」
声をかけられて、エルは自分が通路の真ん中に突っ立っていたことに気がついた。
手には、折り目だらけの紙がある。厩舎、薬草園、帳場、術具の工房。午後の実習先の候補が、教師のきちんとした字で並んでいた。基礎課程を終えてから、まだひとつも丸をつけられずにいる。
見学には、どこも行ったのだ。ただ厩舎では、引退した馬がその後どこへ行ったのかを聞いて回った。帳場では、古い帳簿から急に名前の消えた商人のことばかり尋ねた。仕事を覚えるより先に、話の続きが気になってしまう。
急がなくていい、と父も母も、四人の兄たちも言う。まだ十二歳なのだから、と。だから余計に、自分で決めたかった。
誰かに頼まれたことなら、すぐに決められる気がした。頼まれることは、まだなかった。
「すみません」
壁際へ寄ると、荷運びの男が荷車を押して進み出た。車輪が低く軋む。
積まれているのは本だった。十冊ほどずつ紐でくくられ、束ごとに木の札が下がっている。
「小図書館へ運ぶんですか」
「ええ。寄贈の品の、これが最後の荷で」
エルは首を傾けて、いちばん上の束の背表紙を読もうとした。車輪が回って、字が逃げていく。
「読むのは、棚に入ってからになさいませ」
男は目だけで笑い、角の向こうへ荷車を押していった。
足の裏が温かい、と気づいたのはそのあとだった。
壁際の敷石の一枚だけが、日なたに置いた石のようにぬくもっている。このあたりに日は差さない。
しゃがんで手のひらを当てると、壁の奥で、かたん、と金具の動く音がした。
夕方の城は、あちこちで何かを片づける音がする。床のぬくもりも、きっとそのどれかのせいだ。
そう決めて立ち上がると、目の前に回廊の入口があった。物心ついた頃から縄の張られていた、古い回廊だ。その縄が、なくなっている。
縄の向こうに何があるのかを、エルはまだ知らなかった。紙を上着にしまって、足を踏み入れた。
回廊は、思っていたより明るかった。細い窓から夕日が斜めに差し、塗り直したばかりの漆喰が白く光っている。隅には足場の板が立て掛けられたままで、石灰の匂いがした。
奥へ進むほど、靴の底のぬくもりがはっきりしてくる。
回廊の奥、壁の低いところに、鉄の格子をはめた四角い口があった。そのそばに、青年が一人立っていた。
袖の詰まった灰色の仕事着は城の職人のものに似ているが、襟の形が少し違う。
「きみ」
先に口を開いたのは、青年のほうだった。
「小図書館は、今もあるだろうか」
「ありますよ。毎日のように行きます」
今も、という言い方が耳に残った。
青年は息をつくように、そうか、と言った。
「頼みがある」
頼み、と青年は言った。誰かからそう言われるのは、初めてだった。
「あそこで本を探してほしい。昔の、炎の術者たちのことを書いた本だ。題は分からない」
「題が分からないのに、どうやって探すんですか」
「目印はある。火事の炎を、胸の前に抱えて運んだ男の話だ」
青年は両腕で輪を作ってみせた。大きな水瓶を抱えるような格好だった。
「抱えて? 火を、ですか」
「ああ」
「熱くないんですか。抱えて、どこへ運ぶんです。運んだあと、その火はどうなるんですか」
立て続けに聞くと、青年は少し笑った。笑って、自分の両手を、少しのあいだ見ていた。
「それがどう書かれているのかを、知りたいんだ」
「ご自分で読みに行けばいいのに。城で働く人なら、誰でも入れますよ」
「私は、ここを離れられなくてね」
格子の奥で、また金具が鳴った。修繕の人が持ち場を離れられないのだ、とエルは納得した。
それより、火を抱えた人のことだ。抱えて、運んで、それからどうなったのか。頼まれたからというより、自分がその続きを読みたかった。
「探します。読んで、ここへ戻ってきます」
「ありがとう。きみの名は」
「エルです」
遠くで夕餉の鐘が鳴り始めた。エルは駆けだし、入口で振り返って叫んだ。
「あしたの夕方、また来ます!」
青年は片手を上げた。最初に見たときと同じ敷石の上から、一歩も動いていなかった。
回廊を出ると、すぐ先の角に、さっきの荷車がまだ止まっていた。男が荷の紐を結び直している。
走ると転びますよ、という声を、エルは背中で聞いた。
翌日、午前の授業が終わると、エルは小図書館へ走った。
扉を開けると、糊と革の匂いがする。窓際の席では庭師の女が草木の図譜を広げ、司書のエミーリエは閲覧机に昨日の荷をほどいて、木の札を一枚ずつ帳面と突き合わせていた。
「エミーリエ、本を探してほしいんです。火事の炎を、胸の前に抱えて運んだ男の話が載っている本です」
エミーリエは札を置いた。
「術の呼び名は分かりますか」
「……分かりません」
「その火事は、どこの、いつ頃のことでしょう」
「聞いていません」
「どなたに頼まれたのです」
「古い回廊にいた人です。名前は」
聞いていない。向こうはこちらの名を尋ねてくれたのに。耳が熱くなった。
エミーリエは責めなかった。紙切れに「炎、術者、火事」と書き付け、少し考えてから席を立った。
「言い回しでは目録を引けません。分かっていることから当たりましょう。この寄贈の、先に届いた分に、術者の列伝がありました」
戻ってきた手には、革表紙の厚い本があった。『炎の術者列伝』。
エルは頁を繰った。名前、生まれた土地、短い伝記。ところどころに挿絵がある。
こういう探し方なら慣れている。見出しと絵だけを拾って、指を走らせた。
指が止まる。
見出しは「火球のカルロス」。
ハルデの大火の折、炎を球にまとめて放つ扱いを工夫した。この工夫はのちに火球の術と呼ばれ、多くの戦場で用いられた。そう書いてある。
挿絵の男は、片腕をいっぱいに伸ばしていた。その指の先から、火の球が飛んでいく。
「これだ!」
投げている。抱えてはいない。けれど、火事と、炎の術者と、まとめた火が揃っている。
人づての話は言い回しが変わるものだ。版が違えば「歩いた」が「駆けた」になる。読み比べをしていれば、よくあることだった。
「言い方が少し違うだけで、きっと同じ人の話です」
「ハルデ」
エミーリエは見出しを覗き込んだ。
「それなら、もう一冊あります」
机に置かれたのは、薄い綴じ本だった。『川沿いの町で聞いた話』。旅の人が土地の人の話を書き留めた、聞き書きだという。
「術の本ではありません。ですが、ハルデの話も入っています。土地のことは、土地の人の言葉でも当たっておくものですよ」
エルはぱらぱらとめくった。渡し場の話。塩の値段。嫁入りの歌。
「術のことは、どこにも書いてありません。これは、あとで読みます」
そうですか、とだけエミーリエは言った。取り置きの札を挟んで、机の端に置く。
「これ、借りていきます。回廊まで持っていって、あの人に見せたいんです」
「原本はお出しできません」
エミーリエの声は静かだったが、譲る気配はなかった。
「届いたばかりで、傷みもまだ調べていないのです。写しをお作りください。紙はここに」
エルは口を尖らせかけて、やめた。本を守るのはエミーリエの仕事だ。
「写しの頭には、書名と頁の数字を。あとで元の場所へ戻れるように」
言われたとおりに書き、カルロスの項を写した。
それから挿絵に取り掛かる。顔は丸でいい。伸ばした腕。指先を離れていく火の球。
腕の線を引いたところで、ペンが止まった。
あの人は、両腕で輪を作った。水瓶を抱えるように、胸の前で。
絵の腕は一本で、まっすぐで、火は体から離れていく。投げてしまったら、運べない。
抱えてから投げたのかもしれない、と考えてみた。けれど本には「放つ」としか書いていない。運んだとは、どこにも。
エルは写しの余白に、小さく書いた。
あの人の言葉 胸の前に抱えて、運ぶ
本の言葉 球にまとめて、放つ
少し迷って、その下に「?」を足した。
インクが乾くのを待って写しを畳み、上着の内側にしまう。胸のあたりで紙がかさりと鳴った。
題も分からなかった本を、一日で見つけたのだ。頼まれたことを、一日で。夕方には、あの人に読んで聞かせられる。
それなのに、余白の小さな「?」だけが、畳んだ紙の中でまだ乾いていない気がした。
机の端で、旅人の聞き書きは閉じたままだった。




