下ろすための術
次の日、ヨハンナは来なかった。
エルは、閲覧机で返事を書いた。頼まれたこと。分かったこと。分からなかったこと。
三度、書き直した。三度目に、「でも」で始まる行を消した。
エミーリエは、書き上がった紙を、黙って読んだ。
「分からなかったことが、ひとつ足りません」
「足りませんか」
「あなたが開いたのは、三十一冊のうちの四冊です。開いていない頁のことは、まだ誰も確かめていません」
そのとおりだった。エルは、分からなかったこと、の下に一行足した。同じだ、と帳付けのかたは言った。言っただけだ。
午後、客間の下の花壇を見に行くと、庭師の女が、縄を巻き取っていた。足場は、もう半分、外されている。花壇の布も取られて、白い花が、また日に当たっていた。
「屋根屋は、今日でおしまいでございます。客人は、三日のうちに着くそうで」
女は、巻いた縄を肩に掛けた。
「工房の若いかたなら、今朝、足場の下に立っておいででしたよ。瓦が下りてくるのを、ずっと見上げて。危ないからと、屋根屋が三度、下がらせておりました」
「何か、言っていましたか」
「いいえ。数を、数えておいででした」
その次の日の午後、ヨハンナは、箱を持って小図書館に来た。目の下が、少し黒い。
「昨日は、失礼しました。屋根屋を、見ていました」
「聞きました。数えていた、と」
「屋根から手まで、六つです。七冊目のあの日も、たぶん、六つでした」
ヨハンナは、それ以上は言わなかった。エルも、聞かなかった。
エルは、立ったまま、返事を読んだ。
「分かったこと。マルティンの試し書きの原本は、屋根屋の組に三十一冊あります。開いた頁に、上がったという行はありません。七年目の春の頁には、今日も飛べず、とあります。同じ日の下ろし帳に、瓦六十、割れ無し、とあります。羽落としは、屋根の仕事のなかで、下ろすために仕上げられています」
そこで、息を継いだ。
「分からなかったこと。絵物語の『上がった』が、どこから来たのか。開いていない頁に、何が書いてあるか。マルティンのほかに、上がった人がいたかどうか」
紙を、机に置いた。
「見つかった記録に、マルティンが飛べたという証拠は、ありません。これが、返事です」
でも、は付けなかった。
ヨハンナは、紙を手に取って、もう一度、自分の目で読んだ。
「下ろすために仕上げられています、とあります。マルティンは、下ろすための術ではない、と書いていました」
「はい。四冊目に」
「最後まで、そう思っていたでしょうか」
「分かりません。帳面にあるのは、今日も飛べず、までです」
ヨハンナは、小さく頷いた。
「開いていない頁、というのは」
「三十一冊のうち、開いたのは四冊です。あとの二十七冊は、帳付けのかたが、同じだと言っただけです」
「同じでしょう」
ヨハンナは、紙を畳んだ。
「同じだと思います。でも、読みます。組に頼んで、全部、写させてもらうことにしました。冬のあいだ、仕事のあとに」
「全部ですか」
「三十一年ぶん、試して上がらなかったことが、書いてあります。私は、それを知らずに、初めの三年を、もう一度やりました。あとの二十八年は、やらずに済みます」
エミーリエが、帳面から顔を上げた。
「写しができたら、一部、こちらにも置かせてください。抜き書きの隣に」
「はい」
ヨハンナは、新しい箱を机に置いた。帳面を一冊、寝かせて入れられるほどの大きさだ。底板の真ん中に、黒い石がはめてある。縁には、肩に掛ける革の紐が通してあった。
「飛ぶほうは、まだ調べます。それから」
箱を、指で押した。
「これはこれで、仕上げたいのです」
よかった、と言いそうになって、エルは口を閉じた。
「写しは、何冊になりますか」
「三十一冊です。抜かずに、写します」
ヨハンナは、梯子を見上げた。
「初めてここへ来た日、殿下は、梯子の上で本を落としかけました。次は、片手で下りていました」
エルは、何も言えなかった。そのとおりだった。
「箱は、紐で肩に掛けて上ります。上で箱に本を入れて、放します。箱は、ひとりでに下ります。人は、上るときも下りるときも、両手で梯子を持てます」
「本は、落とすものではありません」
エミーリエが言った。
「落としません。下ろします」
エミーリエは、すぐには返事をしなかった。
エルは、手帳を開いた。寄り合い所で写した、屋根屋の決まりの頁だ。
「屋根屋は、こうしています。一枚ずつ。受ける者のいないところへは、放さない。石は、毎朝、縁を見る。くすんでいたら、入れ替える」
それから、工房で数えた頁。
「重いものを入れると、箱は速く落ちます。石が尽きかけても、速く落ちます。石をいくつにしても、途中では止まりません」
エミーリエは、手帳を覗いて、長いこと考えていた。
「一冊ずつ。下に人がいるときだけ。石は、毎朝、見習いが確かめる」
指を、一本ずつ折る。
「梯子の上から放して、着くまでに四つ数えられない本は、重すぎます。今までどおり、私を呼ぶこと。それから、原本は入れません。帳面と、写しからです」
「原本は、いつからですか」
「冬のあいだ、帳面が一冊も傷まなければ、そのときに考えます」
ヨハンナは、頷いた。
「下に、砂の盆を置きます。受ける人が手を滑らせても、箱が静かに着くように。底板は、月に一度、私が見に来ます。石は、工房で詰め替えます。親方の許しは、もらってあります」
最初に下ろしたのは、古い貸し出しの帳面だった。
エルは、箱を肩に掛けて、両手で梯子を上った。上の棚の前で箱を肩から外し、目の前の踏み板に載せる。棚から抜いた帳面を箱に寝かせ、棚の外へ差し出して、指を開く。
箱は、下りていった。帳面の背の字が読めるほどの遅さで、棚の段を、ひとつずつ過ぎていく。エルは、数えた。七つ。
下で、ヨハンナが、両手で受けた。
エルは、両手で梯子を下りた。足元だけを見て下りられたのは、初めてだった。
エミーリエは、受け取った帳面の四つの角を、順に指で確かめた。それから、背を見た。
「傷んでいません」
二冊目は、エルが受ける番だった。ヨハンナが箱を肩に掛けて梯子を上り、写しの束を箱に入れて、放す。
箱は、エルの両手の上に、そっと載った。初めて放した日と同じで、重さが、少し遅れてやって来た。
「本を上の段へ戻すときは、どうしますか」
エミーリエが聞いた。
「抱えて、上ります」
ヨハンナは、梯子の上から答えた。
「上がるほうは、まだ、できないので」
冗談なのかどうか、エルには分からなかった。エミーリエは、少しだけ笑った。
絵物語を棚に戻す前に、エルは、七度目の春の頁を開いた。マルティンの足が、屋根を離れている絵だ。五つの頃と同じように、空のところを、指でなぞってみた。それから、閉じた。
絵物語は、元の棚に戻した。折れた角も、最後の一行も、そのままだ。
「書き直さないんですね」
「絵物語は、絵物語を作った人の本です。直すのは、私たちの仕事ではありません。分かったことは、札に足します」
あれを書いた人の本だ、とカルロスも言っていた。
エルは、絵物語の木の札の、来歴の下に書いた。
元になった試し書きの原本は、屋根屋の組に三十一冊ある。開いた頁に、上がったという行はない。写しを作っている。
抜き書きの札にも、同じことを書いた。
手帳を開いた。
確かめたこと。見つかった記録では、マルティンは飛べなかった。三十一年、飛ぼうとしていた。
外れた考え。役に立った術なのだから、それでいい、と思ったこと。
次に確かめること、の行を考えていると、ヨハンナが、砂の盆の脇で、自分の帳面に何か書いているのが見えた。逆さまの字が、一行だけ読めた。
今日も飛べず。帳面は一冊、落とさずに下ろせた。
書き終えると、ヨハンナは顔を上げた。箱が下りてきた棚より、もっと上を見ていた。




