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王家の小図書館  作者: 朝庭零
飛べなかった術師
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18/20

飛べず、割れず

 坂を下るあいだ、ヨハンナは、町の屋根ばかり見ていた。

 荷車の上からだと、屋根はよく見える。直しの足場が掛かった家が、通りに二軒あった。軒の先から、瓦が一枚、ゆっくり下りていく。

「殿下。気になるのは分かりますが、荷車の縁《ふち》から、身を乗り出さないでください」

 荷運びの男は、前を向いたまま言った。言われて初めて、エルは、自分も縁から身を乗り出していたことに気づいた。

 屋根屋の組の寄り合い所は、川から二筋入った通りにあった。

 壁際に、古い瓦が、形ごとに積んである。軒の下には、柄《え》の先に黒い石をはめた棒が、十本ほど掛かっていた。工房の棒より長く、柄が手の脂で黒い。

 荷運びの男は、荷車を戸口の脇に寄せた。

「私は、ここで荷を見ております。お帰りは、日のあるうちに」

 ヨハンナは、荷車を降りるあいだも、軒の棒を見ていた。石をどう据えてあるのかを見ているのだ、とエルにも分かった。

 戸口の内側の板に、古い字で、下ろしの決まりが書いてあった。

 〈一枚ずつ。受ける者のいないところへ放すな。石は毎朝、縁を見ろ。くすんでいたら、入れ替えろ〉

 エルは、それを手帳に写した。

 中にいたのは、老人が一人だった。組の帳付《ちょうつ》けだという。若い頃は屋根に上がっていたが、膝を悪くしてから、組の帳面を預かっている。

 老人は、エミーリエの手紙を、目から離して読んだ。

「小図書館の見習いさんと、城の工房の職人さんか。マルティンの帳面を見たい、と」

「はい。四年目から先を」

「四年目から、ね」

 老人は、笑ったのか咳《せき》をしたのか、分からない音を立てた。

「前に借りに来た司書さんは、三冊で帰った。わしが小僧の頃の話だ。あとの二十八冊は、それきり、誰も見に来なかった」

 棚の一段が、同じ大きさの帳面で埋まっていた。背に、数が書いてある。一から、三十一まで。

 隣の段には、もっと厚い帳面が並んでいる。

「そっちは、組の下ろし帳だ。どの屋根で、瓦を何枚下ろして、何枚割れて、誰にいくら払ったか」

 老人は、マルティンの四冊目を抜いて、机に置いた。

「そっとめくってくれよ。屋根の上で書いた帳面だ。雨も露も、さんざん吸ってきた」

 表紙に、指の跡が黒く残っていた。開くと、頁《ページ》のあいだから、瓦の粉が少しこぼれた。


 四冊目の初めの頁は、三年目までと同じだった。上がらず。上がらず。

 秋の頁で、字が増えた。

 〈屋根屋の親方が来る。箱が落ちるのを見て、笑わなかった。上げるほうはこちらでやる、下ろすときに、きみの術を貸してくれ、と言う〉

 〈断った。これは、下ろすための術ではない〉

 三日あとの頁。

 〈親方が、また来る。石の代は払う、と言う。石が買えれば、試しを続けられる。貸すことにした〉

 ヨハンナが、息を吸う音がした。

「石を買うために」

「読めるようだね、職人さん。マルティンの字は、癖があるんだが」

 老人が言った。

「マルティンは、うちでは『下ろしのマルティン』だ。組でいちばんの術師だった。屋根屋が瓦を割らずに下ろせるのは、あの人のおかげだよ。組の者は、みんなそう教わる」

「飛ぼうとしていたことは、教わりますか」

 エルが聞くと、老人は首を傾けた。

「教わらんね。朝、寄り合い所の裏で、箱を放しているのは見たよ。わしが組に入った年だ。マルティンは、もう屋根には上がらずに、下で棒を持っていた。箱が落ちるのを見て、帳面に何か書いて、それから仕事に出た。次の冬に、亡くなった」

「上がるところは」

「見たことがない。わしが見ていないときのことは、知らんよ」

 七冊目を開いた。絵物語が、七度目の春、と書いた年だ。

 春の頁を、一枚ずつめくった。上がらず、という字は、もうなかった。屋根に上がるようになってから、言葉が変わっている。毎日、同じ形の一行だった。

 〈今日も飛べず。瓦は四十枚、割れは三〉

 〈今日も飛べず。瓦は五十二枚、割れは一〉

 そして、春の終わりの一日。

 〈今日も飛べず。瓦は六十枚、割らずに下ろせた〉

 老人が、下ろし帳の厚い一冊を、同じ日のところで開いた。

 〈六十、割れ無し。術師に酒〉

 二冊の帳面が、同じ日に、同じ数を書いている。書いた人は、別だ。

 組の人は、瓦のほうを覚えている。絵物語は、飛ぶほうを覚えていて、七度目の春に上がった、と書く。飛べなかったことと、瓦のことが、ひとつの行に並んでいるのは、本人の帳面だけだった。

「この日から、割れ無しが続く。組が、羽落としで食えるようになった日だよ」

 老人は、下ろし帳のその行を、指で叩《たた》いた。

 絵物語の、七度目の春に上がった、というのは、この日のことかもしれない。エルは、そう言いかけて、やめた。そう決めるだけの材料は、ここにはない。手帳には、かもしれない、まで書いた。

「八冊目から先は、どうなっていますか」

「同じだよ。飛べず、瓦は何枚。最後まで、そればかりだ」

 老人は、棚の真ん中あたりから、一冊を抜いた。十六冊目だった。開いた頁を、ヨハンナが読んだ。

 〈今日も飛べず。石を箱の蓋に据えてみた。変わらず。瓦は七十枚〉

 〈今日も飛べず。箱を二つ重ねた。変わらず。瓦は六十五枚〉

「毎日、違うことを試しています」

 ヨハンナの指が、行の上で止まった。

「石を蓋に据えるのは、私も、来月やるつもりでした」

 老人は、最後に、三十一冊目を抜いた。開くと、字が、大きく、震えている。

 〈今日も飛べず。瓦は、若い者が下ろした〉

 それが、最後の頁の、最後の行だった。

 ヨハンナは、その行から目を離さなかった。

「三十一年」

 声が、掠《かす》れていた。

「上がった人がいるなら、やり方はある。そう思って、三年、やりました」

 ヨハンナは、帳面の脇に置いた自分の手を見ていた。

「上がった人は、いなかった」

 寄り合い所の中が、静かになった。老人は、何か言いかけて、下ろし帳を閉じた。

 五つの頃に指でなぞった空が、ただの余白に見えた。

 何か言わなければ、とエルは思った。

「でも、六十枚、割れなかったんです。それで今も、屋根屋は瓦を」

 言い終わる前に、間違えたと分かった。

 ヨハンナは、エルを見た。怒ってはいなかった。

「ええ。知っています。羽落としは、いい術です」

 それだけ言って、三十一冊目を閉じ、背の数が揃うように、棚へ戻した。

 この人は、羽落としの石を、毎日詰め替えている。役に立つことなら、エルより、ずっとよく知っている。


 夕方の片づけの熱が流れると、カルロスは敷石の上にいた。

 エルは、絵物語と、三十一冊の帳面の話をした。最後に、自分が言ったことも話した。

「瓦は割れなかった、と言ったんです。飛べなかったと分かったばかりの人に。役に立ったのだから、と言いたかったんだと思います」

 カルロスは、格子の上を見ていた。

「カルロスさんは、列伝《れつでん》に火球《かきゅう》と書かれているのを聞いたとき、どう思いましたか」

「戦《いくさ》で役に立った、と書いてあったな」

 カルロスは、少し笑った。

「役に立ったのは、本当だろう。間違いだとも、言えなかった。ただ、あれを聞いたとき、私が逃がそうとした人たちのことは、誰にも聞かれていない気がした」

 格子の奥で、金具が鳴った。

「あの列伝を、書き直してほしいですか」

「いや。あれは、あれを書いた人の本だ。私が聞いてほしかったことは、本とは別に、きみが聞いてくれた。それで足りている」

 本とは別に、聞く。エルは、その言葉を手帳に書かなかった。書かなくても、忘れない気がした。

「その職人は、あした、来るだろうか」

「分かりません」

「来なかったら」

「待ちます。返事は、頼んだ人に返すものなので」

 カルロスは、頷いた。金具の音がやむまで、二人とも、それ以上は言わなかった。


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