飛べず、割れず
坂を下るあいだ、ヨハンナは、町の屋根ばかり見ていた。
荷車の上からだと、屋根はよく見える。直しの足場が掛かった家が、通りに二軒あった。軒の先から、瓦が一枚、ゆっくり下りていく。
「殿下。気になるのは分かりますが、荷車の縁から、身を乗り出さないでください」
荷運びの男は、前を向いたまま言った。言われて初めて、エルは、自分も縁から身を乗り出していたことに気づいた。
屋根屋の組の寄り合い所は、川から二筋入った通りにあった。
壁際に、古い瓦が、形ごとに積んである。軒の下には、柄の先に黒い石をはめた棒が、十本ほど掛かっていた。工房の棒より長く、柄が手の脂で黒い。
荷運びの男は、荷車を戸口の脇に寄せた。
「私は、ここで荷を見ております。お帰りは、日のあるうちに」
ヨハンナは、荷車を降りるあいだも、軒の棒を見ていた。石をどう据えてあるのかを見ているのだ、とエルにも分かった。
戸口の内側の板に、古い字で、下ろしの決まりが書いてあった。
〈一枚ずつ。受ける者のいないところへ放すな。石は毎朝、縁を見ろ。くすんでいたら、入れ替えろ〉
エルは、それを手帳に写した。
中にいたのは、老人が一人だった。組の帳付けだという。若い頃は屋根に上がっていたが、膝を悪くしてから、組の帳面を預かっている。
老人は、エミーリエの手紙を、目から離して読んだ。
「小図書館の見習いさんと、城の工房の職人さんか。マルティンの帳面を見たい、と」
「はい。四年目から先を」
「四年目から、ね」
老人は、笑ったのか咳をしたのか、分からない音を立てた。
「前に借りに来た司書さんは、三冊で帰った。わしが小僧の頃の話だ。あとの二十八冊は、それきり、誰も見に来なかった」
棚の一段が、同じ大きさの帳面で埋まっていた。背に、数が書いてある。一から、三十一まで。
隣の段には、もっと厚い帳面が並んでいる。
「そっちは、組の下ろし帳だ。どの屋根で、瓦を何枚下ろして、何枚割れて、誰にいくら払ったか」
老人は、マルティンの四冊目を抜いて、机に置いた。
「そっとめくってくれよ。屋根の上で書いた帳面だ。雨も露も、さんざん吸ってきた」
表紙に、指の跡が黒く残っていた。開くと、頁のあいだから、瓦の粉が少しこぼれた。
四冊目の初めの頁は、三年目までと同じだった。上がらず。上がらず。
秋の頁で、字が増えた。
〈屋根屋の親方が来る。箱が落ちるのを見て、笑わなかった。上げるほうはこちらでやる、下ろすときに、きみの術を貸してくれ、と言う〉
〈断った。これは、下ろすための術ではない〉
三日あとの頁。
〈親方が、また来る。石の代は払う、と言う。石が買えれば、試しを続けられる。貸すことにした〉
ヨハンナが、息を吸う音がした。
「石を買うために」
「読めるようだね、職人さん。マルティンの字は、癖があるんだが」
老人が言った。
「マルティンは、うちでは『下ろしのマルティン』だ。組でいちばんの術師だった。屋根屋が瓦を割らずに下ろせるのは、あの人のおかげだよ。組の者は、みんなそう教わる」
「飛ぼうとしていたことは、教わりますか」
エルが聞くと、老人は首を傾けた。
「教わらんね。朝、寄り合い所の裏で、箱を放しているのは見たよ。わしが組に入った年だ。マルティンは、もう屋根には上がらずに、下で棒を持っていた。箱が落ちるのを見て、帳面に何か書いて、それから仕事に出た。次の冬に、亡くなった」
「上がるところは」
「見たことがない。わしが見ていないときのことは、知らんよ」
七冊目を開いた。絵物語が、七度目の春、と書いた年だ。
春の頁を、一枚ずつめくった。上がらず、という字は、もうなかった。屋根に上がるようになってから、言葉が変わっている。毎日、同じ形の一行だった。
〈今日も飛べず。瓦は四十枚、割れは三〉
〈今日も飛べず。瓦は五十二枚、割れは一〉
そして、春の終わりの一日。
〈今日も飛べず。瓦は六十枚、割らずに下ろせた〉
老人が、下ろし帳の厚い一冊を、同じ日のところで開いた。
〈六十、割れ無し。術師に酒〉
二冊の帳面が、同じ日に、同じ数を書いている。書いた人は、別だ。
組の人は、瓦のほうを覚えている。絵物語は、飛ぶほうを覚えていて、七度目の春に上がった、と書く。飛べなかったことと、瓦のことが、ひとつの行に並んでいるのは、本人の帳面だけだった。
「この日から、割れ無しが続く。組が、羽落としで食えるようになった日だよ」
老人は、下ろし帳のその行を、指で叩いた。
絵物語の、七度目の春に上がった、というのは、この日のことかもしれない。エルは、そう言いかけて、やめた。そう決めるだけの材料は、ここにはない。手帳には、かもしれない、まで書いた。
「八冊目から先は、どうなっていますか」
「同じだよ。飛べず、瓦は何枚。最後まで、そればかりだ」
老人は、棚の真ん中あたりから、一冊を抜いた。十六冊目だった。開いた頁を、ヨハンナが読んだ。
〈今日も飛べず。石を箱の蓋に据えてみた。変わらず。瓦は七十枚〉
〈今日も飛べず。箱を二つ重ねた。変わらず。瓦は六十五枚〉
「毎日、違うことを試しています」
ヨハンナの指が、行の上で止まった。
「石を蓋に据えるのは、私も、来月やるつもりでした」
老人は、最後に、三十一冊目を抜いた。開くと、字が、大きく、震えている。
〈今日も飛べず。瓦は、若い者が下ろした〉
それが、最後の頁の、最後の行だった。
ヨハンナは、その行から目を離さなかった。
「三十一年」
声が、掠れていた。
「上がった人がいるなら、やり方はある。そう思って、三年、やりました」
ヨハンナは、帳面の脇に置いた自分の手を見ていた。
「上がった人は、いなかった」
寄り合い所の中が、静かになった。老人は、何か言いかけて、下ろし帳を閉じた。
五つの頃に指でなぞった空が、ただの余白に見えた。
何か言わなければ、とエルは思った。
「でも、六十枚、割れなかったんです。それで今も、屋根屋は瓦を」
言い終わる前に、間違えたと分かった。
ヨハンナは、エルを見た。怒ってはいなかった。
「ええ。知っています。羽落としは、いい術です」
それだけ言って、三十一冊目を閉じ、背の数が揃うように、棚へ戻した。
この人は、羽落としの石を、毎日詰め替えている。役に立つことなら、エルより、ずっとよく知っている。
夕方の片づけの熱が流れると、カルロスは敷石の上にいた。
エルは、絵物語と、三十一冊の帳面の話をした。最後に、自分が言ったことも話した。
「瓦は割れなかった、と言ったんです。飛べなかったと分かったばかりの人に。役に立ったのだから、と言いたかったんだと思います」
カルロスは、格子の上を見ていた。
「カルロスさんは、列伝に火球と書かれているのを聞いたとき、どう思いましたか」
「戦で役に立った、と書いてあったな」
カルロスは、少し笑った。
「役に立ったのは、本当だろう。間違いだとも、言えなかった。ただ、あれを聞いたとき、私が逃がそうとした人たちのことは、誰にも聞かれていない気がした」
格子の奥で、金具が鳴った。
「あの列伝を、書き直してほしいですか」
「いや。あれは、あれを書いた人の本だ。私が聞いてほしかったことは、本とは別に、きみが聞いてくれた。それで足りている」
本とは別に、聞く。エルは、その言葉を手帳に書かなかった。書かなくても、忘れない気がした。
「その職人は、あした、来るだろうか」
「分かりません」
「来なかったら」
「待ちます。返事は、頼んだ人に返すものなので」
カルロスは、頷いた。金具の音がやむまで、二人とも、それ以上は言わなかった。




