上がった日の記録
翌日の午後、工房へ行く途中で、エルは足を止めた。客間の屋根の下に、縄が張ってある。
「殿下。そこから先は、入れません。瓦が下りてまいります」
庭師の女が、縄の手前で、熊手を止めた。目で、上を示す。
屋根の上に、人が三人いた。軒の先にしゃがんだ一人が、古い瓦を一枚、宙へ差し出して、手を放す。
瓦は、落ちた。昨日の箱より速く、けれど、割れる速さではない。少しも回らずに、まっすぐ下りてくる。
地面には、棒を上へ向けた職人が立っていた。瓦は、棒の真上へ来ると、いっそう遅くなって、隣の職人の両手に載った。受けた人が、数を言って、積む。また一枚、下りてくる。
エルは、数えてみた。屋根から手まで、六つ。
次の一枚は、少し外へそれた。棒の真上を通らなかった瓦は、途中から、ただの瓦になって落ちた。地面で、乾いた音がした。
「外れ」
受けていた職人が言って、破片を足で脇へ寄せた。屋根の上の人は、何も言わずに、次の一枚を差し出した。
「客人が着く前に、葺き替えを済ませるのだそうです。あと二日、と聞いております」
「新しい瓦は、どうやって上げるんですか」
「縄と籠でございます。朝から、若い人が担いでおりますよ」
女は、屋根の端を目で示した。籠を背負った人が、足場の梯子を上っていくところだった。
下りる瓦は、羽のようだった。上る瓦は、人の背中に載っている。
「羽落としは、昔からあるんですか」
「私が城に来た頃には、もう。あれがなければ仕事にならない、と屋根屋は申します」
女は、縄の向こうの花壇を見た。瓦の破片が落ちても花が傷まないように、布がかぶせてある。
「羽落としのない頃は、古い瓦を、屋根から投げ下ろしたそうです。葺き替えのたびに、下の花壇が半分、駄目になったと。先代の庭師から聞いた話でございますが」
エルは、もう一度屋根を見上げてから、工房へ歩いた。
工房では、ルートヴィヒ親方が、作業台に砂の盆を据えて待っていた。
「殿下、見ていてくだされ。手は出さない」
「出しません。数えます」
「それは助かりますな。この者は、数え始めると、飯を忘れますでな」
ヨハンナは何も言わずに、箱を目の高さへ上げた。
放す。箱は、砂の上に着いた。エルは数えて、手帳に八つ、と書いた。昨日と同じだ。
次に、ヨハンナは箱へ鉄の粒を入れた。片手に握れるほどの量だ。放す。
四つ。
粒を倍にして、もう一度。
二つ。砂が、盆の縁を越えて散った。普通に落ちるのと、もう、あまり変わらない。
「重いほど、緩みが浅くなります。屋根屋が瓦を一枚ずつ下ろすのも、そのためです。束ねて放せば、割れます」
ヨハンナは粒を捨て、箱の底板を外して、石を二つはめたものに替えた。空の箱を、放す。
十三。
箱は、さっきよりずっと遅く下りた。盆の少し上で止まるのではないか、と思った。止まらなかった。
「石を、もっと増やしたら」
「遅くなります。石は、四つまで、やりました」
ヨハンナは、箱を拾った。
「遅くなるだけです。止まりません。上へは、一度も行きません」
「高いところから放したら、どうなりますか」
「同じ遅さで、長く落ちるだけです。屋根から放しても、途中で止まったことはありません」
エルは、抜き書きの写しを広げた。昨日のうちに、三年目の頁を写しておいた。
〈石を二つにする。落ちるのが、さらに遅い。上がらず〉
〈石を三つにする。なお遅い。上がらず〉
その隣に、今日の手帳を開いて置いた。重くした箱は、速く落ちた。石を増やした箱は、遅く落ちた。けれど、どの箱も、下へ落ちた。
マルティンの写しと、同じだった。遅くはなっても、上へ動いたことは、一度もない。
「マルティンの箱も、ヨハンナさんの箱も、同じところまで来ています」
「ええ。三年目までは」
ヨハンナは、写しの行を、指でなぞった。
「屋根屋の棒の石を詰め替えるのが、私の仕事です。棒をかざせば、瓦は緩む。それなら、石を箱に入れれば、箱はひとりでに緩むはずだ。そこまでは、すぐにできました。絵物語の絵のとおりです」
「そこから先が」
「三年です」
ヨハンナは、初めの底板に戻して、もう一度、箱を放した。
五つで、落ちた。さっきは八つだった箱だ。
親方が、箱の底を覗いた。石の縁が、くすんでいる。
「尽きかけですな。今日は、ここまで」
ヨハンナは、箱を布で包んだ。
「夕方の片づけの当番なので、私は、ここで失礼します」
「熱の片づけですか」
「はい。壁の直しが半分を過ぎてから、弁の付け替えが増えました。客人が着く前に、音の出る仕事を済ませたいのだそうです」
半分を過ぎた。前に親方から聞いたときは、半分まで、だった。エルは、手帳の隅のその行の下に、今日の言葉を足した。その日がいつなのかは、聞かなかった。
ヨハンナが出ていくと、見習いの子が、砂の盆を片づけに来た。盆を抱えたまま、エルの手帳を覗いた。
「殿下。小図書館の本は、城で働く者なら、誰でも読めるのですか」
「読めるよ。紹介があれば、外の人でも」
「図のある、修繕の手引きがあると聞きました。棒の継ぎ目の直しの」
「あるかどうか、見ておくよ。読めるといいね」
見習いの子は、頭を下げて、盆を奥へ運んでいった。親方は、空いた台を手で払った。
「親方は、ヨハンナさんが飛ぶ試しをしているのを、知っていたんですか」
「仕事のあとに、自分の石でやる分には、口は出しませんな」
「上がると、思いますか」
「分かりませんな」
親方は、棚の棒を一本下ろした。柄が長い。屋根屋の棒だという。
「ただ、羽落としの石の詰め替えは、あれが工房でいちばんうまい。落ちるほうを三年見てきた者は、そうなります」
エルは、それも手帳に書いた。いいことを聞いた、と思った。
夕方、エルは閲覧机に、本を三冊並べた。
抜き書き。小図書館の絵物語。ヨハンナが置いていった刷り物。
書かれた順に、並べ直す。抜き書きの元は、マルティンが自分で書いた試し書きだ。絵物語は、マルティンが亡くなって十二年あと。刷り物は、それをさらに写したものだ。
上がった、と書いてあるのは、絵物語と刷り物だけだった。いちばん古い、本人の記録には、上がらず、しかない。
絵物語を、初めから読み直した。四度目の春も、五度目の春も、マルティンは箱を作っては、屋根から放している。絵の中の箱は、どれも落ちていく。七度目の春の頁だけ、マルティンの足が、屋根を離れていた。
どうやって上がったのかは、書いていない。ついに、とあるだけだ。
抜き書きは、三年目までしかない。本人が書いた四年目から先を見るまでは、絵物語が違うとも言えない。
エルは、抜き書きの、三年目の最後の頁を、もう一度開いた。
昨日は、上がらず、の行だけを見て閉じた。頁の下の隅に、小さな字がある。本文とは違う手だった。
〈四年目より先は、屋根の仕事の覚えにつき、写さず〉
「エミーリエ。これは、誰の字ですか」
エミーリエは、頁を明かりへ寄せた。
「写した人の字です。私の、三代前の司書でしょう。術の由来を書いた本を、あちこちから借りては、要るところだけを写して集めた人です」
「要るところだけ」
「術のことを書いたところだけを、集めていたのです。屋根の仕事の覚えは、集めるものに入らなかった」
「原本は、どこにありますか」
エミーリエは、古い受け入れの帳面を開いた。写しを作った行に、借りた先が書いてある。
「屋根屋の組です。『屋根屋の組より、術師マルティンの帳面、三十一冊のうち、初めの三冊を借りて写す』」
三十一冊。
エルは、絵物語の表紙を見た。箱を背負った若者の足の下に、屋根が小さく描いてある。小さいのに、瓦の一枚一枚まで、細かく描いてあった。
「飛ぶ試しをしていた人が、どうして、屋根屋の組の術師だったんでしょう」
「分かりません」
エミーリエは、便箋を出した。
「分からないことは、記録を持っている人に、聞きに行くものです。組に、紹介状を書きます。あしたの午後、荷車を頼みましょう」
手帳に書いた。
確かめたこと。上がった、と書いてあるのは、マルティンが亡くなったあとの本だけ。
次に確かめること。四年目から三十一年目まで。屋根屋の組。
それから、行をあけて、もうひとつ書いた。
飛ぼうとしていた人が、なぜ屋根にいたのか。




