落ちるのが遅い箱
木の小箱が、閲覧机へ落ちていく。
落ちていく、としか言いようがなかった。糸で下げてあるのではない。誰かが下から支えているのでもない。
若い女の人が、目の高さで手を放した。それだけだ。
ただ、遅い。
エルは梯子の上から、それを見ていた。口の中で数えた。八つまで数えたとき、箱は机に着いた。音が、しなかった。
エミーリエが、帳面から顔を上げた。
「閲覧机の上で、物を落とさないでください」
「すみません。見ていただくのが、早いと思いまして」
女の人は箱を拾い上げ、もう一度、同じ高さに持ち上げた。エミーリエの眉が動いたので、今度は放さなかった。
もっとよく見ようとして、エルは梯子から身を乗り出した。抱えていた図譜が、腕の中で滑った。
「殿下。梯子の上で、身を乗り出さないでください」
戸口に、荷運びの男が立っていた。寄贈の木箱を床に下ろすと、三歩で梯子の下まで来て、片手で梯子を押さえ、もう片方の手を上へ伸ばした。
「本は、私が」
エルは図譜を渡し、両手で梯子を下りた。上の段の本に札を付けるのは見習いの仕事だが、大きな本を抱えて下りるのは、まだ怖い。
「落とさずに運ぶのが、私の仕事でして」
男は図譜を机の端に置き、目だけで笑って、戸口の木箱のほうへ戻っていった。
女の人は、術具の工房の職人だった。ヨハンナと名乗った。ルートヴィヒ親方のところで、いちばん若いのだという。袖口に、石の粉が白く付いている。
「これを、見てください」
差し出された箱は、エルの手のひらに載るほどの大きさだった。蓋はなく、底板の真ん中に、黒い石がひとつはめてある。工房の棒の先の石と、同じ石だ。
「羽落としです。屋根屋が、瓦を下ろすときに使う術です。本当は、下から棒をかざして使います。私は、その石を箱に入れただけです」
ヨハンナは、机から三歩離れて、箱をエルに渡した。
「放してみますか」
エルは、箱を目の高さに上げて、指を開いた。
箱は、落ちた。水の底へ沈む石より遅く、けれど止まりはせずに、まっすぐ下りていく。
途中で、下から手を入れてみた。箱は、手のひらの上に、そっと載った。重さは、少し遅れてやって来た。
「屋根屋の瓦は、こうやって下りてくるんですか」
「はい。軒の先から放して、下で受けます」
そういえば、見たことがある。城の屋根の直しを、窓から眺めたときだ。瓦が、ひどくゆっくり落ちていった。遠いから遅く見えるのだと、ずっと思っていた。
「落ちるほうは、できるのです」
ヨハンナは、エルの手からゆっくり箱を取った。それから、少し黙った。
「上がるほうが、できません」
ヨハンナは、上着の内側から、薄い本を出した。色の薄くなった表紙に、箱を背負った若者が描いてある。足の下に、屋根が小さく見えた。
「『空へ上がった術師』。町の市で売っている刷り物です。子供の頃から、何度も読みました。屋根ばかり見上げて歩くので、よく転びました」
「ぼくも、読みました」
思わず、そう言っていた。
「ここに、元の本があります。小さい頃、何度も」
「知っています。刷り物の終わりに、王家の小図書館の本より、と書いてあります。だから、ここへ来ました」
ヨハンナは、刷り物の最後の頁を開いた。
〈術師マルティンは、七度目の春に、屋根より高く上がった。そして、羽のように、ゆっくり下りてきた。その下りてくるときの術が、今も屋根屋に伝わって、瓦を下ろすのに使われている〉
「この本では、マルティンは空へ上がって、ゆっくり下りてきたことになっています。屋根屋が使っているのは、その下りてくるときの術です。それなら、上がるときの術も、どこかにあったはずです」
ヨハンナは、刷り物を閉じた。
「私は三年、探しました。石の向きを変え、数を変え、箱を変えました。上がりません。マルティンが上がった日の記録が、どこかにあるはずです。それを、探していただけませんか」
エルは手帳を開きかけて、手を止めた。先に、確かめることがある。
「知りたいのは、上がるやり方ですか。それとも、マルティンが本当に上がったかどうか、ですか」
ヨハンナは、すぐには答えなかった。
「……上がったかどうか、です。上がった人がいるなら、やり方は、自分で探せます」
手帳に書いた。頼まれたこと。マルティンが上がった日の記録を探す。マルティンは、本当に上がったのか。
元の本は、絵物語の棚の、いちばん下の段にあった。子供の手が届く高さだ。
刷り物より、ふた回り大きい。字も絵も、手で書いてある。表紙の右上の角が、斜めに折れていた。
「殿下が、五つの頃に折った角です」
エミーリエが言った。
「直さなかったんですか」
「折った人が分かっている傷は、来歴のうちです」
褒められたのではない、ということは分かった。
最後の頁をめくると、刷り物にはない一行があった。
〈術師マルティンの試し書きによる。マルティン没して十二年ののち、これを作る〉
「試し書き」
ヨハンナが、その字を指した。
「刷り物には、この行がありません」
「刷るときに、省いたのでしょう。子供の本に、奥付は要りませんから」
エミーリエは、絵物語を閉じて、表紙に手を置いた。
「絵物語は、子供が読むために、あとの人が作った本です。試し書きは、本人が書いたものです。同じ人のことでも、棚が違います」
それから、目録を繰った。指が、途中で止まった。
「あります。『術師マルティン試し書き、抜き書き』。一冊。術の由来の棚の、上の段です」
エルは、もう梯子に手を掛けていた。
「見習いさん」
「薄い本なら、片手で持てます」
「片手で持てない本のときは、私を呼びなさい。もう片方の手は、梯子をつかむためのものです」
いつも言われていることだった。
抜き書きは、エルの手帳を三冊重ねたほどの厚さだった。
表紙に、〈試し、一年目より三年目まで〉とある。開くと、最初の頁に図があった。蓋のない箱。底板の真ん中に、丸い印。
ヨハンナの箱と、同じ形だった。
〈石を箱の底に据える。屋根より放す。上がらず。落ちるのが遅い〉
〈石を替える。上がらず〉
〈箱を軽くする。上がらず。落ちるのは、なお遅い〉
同じ言葉が、頁の頭から終わりまで並んでいた。上がらず。上がらず。
ヨハンナは、自分の帳面を出して、抜き書きの隣に置いた。角のすり切れた、工房の帳面だ。
「三年前からの、私の帳面です」
並べると、行が合った。石を替えた日。箱を軽くした日。石を二つにした日。
言葉は違うのに、試した順番まで同じだった。
「同じことを、しています」
ヨハンナの声は、小さかった。
「この人も、落ちるほうは、できたんですね」
エルは、絵物語の表紙を見た。箱を背負って、屋根より高いところにいる若者。五つの頃、この絵の空を、指でなぞった覚えがある。
抜き書きを、終わりまでめくった。三年目の最後の行も、上がらず、だった。そこから先の頁には、何も書かれていない。
「絵物語は、七度目の春、と書いています。あいだの四年が、ここにはありません」
「その四年に、何かを変えたはずです」
ヨハンナは、何も書かれていない頁を見たまま言った。
「変えたから、上がった。その頁が、どこかにあります」
そうであってほしい、と思った。ヨハンナのために、だけではなかった。五つの頃の自分も、マルティンに上がっていてほしかった。
窓の外の木は、もう葉を落としきっていた。枝のあいだから、客間の屋根が見える。
手帳を開いた。
聞いたこと。羽落としは、空へ上がったマルティンが、下りてくるときに使った術だという。絵物語による。
確かめたこと。マルティンは、三年目まで上がっていない。抜き書きによる。
次に確かめること。四年目から先の試し書きは、どこにあるのか。
外れた考え、の行には、まだ何も書いていない。マルティンは上がった、という考えを、ここに書くことにならなければいい。そう思うのは、初めてだった。




