新しい約束
翌朝、エルは東屋へ行った。庭師の女は、生け垣の外で待っていた。
妖精は、梁の上に降りてきた。
「春は、終わったか」
「終わっていません。春告げは、散らせません。来月、客人が来ます。それに、秋に散らされた花が、次の春に咲くかどうか、誰も知らないそうです」
「では、本は返さない」
「はい。春が終わるまで、返さなくていいです」
妖精が、翅を半分広げた。意外だった、という動きに見えた。
「その代わり、頼みがあります。約束を、ひとつ足したいんです」
エルは、手帳を開いた。昨日の晩に、何度も書き直した一行だ。
「本を、三日だけ貸してください。授業に使います。三日たったら、ぼくが、ここへ持ってきます。そのあとは、また春が終わるまで、あなたの本です」
「三日」
「日の暮れを、三つ数えてください。三つ目の日が暮れる前に、持ってきます」
妖精は、長いこと黙っていた。梁の上で、翅がゆっくり開いて、閉じた。
「ひとの暦は読まない。だが、日の暮れは、わたしも数える」
「はい。日は、誰にでも同じに暮れます」
「三つだ。三つ目の日が暮れて、本がなければ、約束は破られたことになる」
「破りません」
妖精は、梁の端に、白い小石を三つ、並べた。どこから出したのか、エルには見えなかった。
「日が暮れるたびに、ひとつ落とす。三つ目を落とす前に、本が戻れば、約束は守られたことになる」
それから、屋根の裏へ上がり、油を引いた布の包みを、梁の上まで押してきた。小さな体で、布に包んだ本を押す。
手伝おうとして、エルは手を止めた。手を出すな、とは言われていない。言われていないが、妖精の仕事に見えた。
包みが、梁の端から、エルの手の上に落ちた。思ったより、重かった。
「三つだ」
「三つです」
エルは、包みを胸に抱えて、東屋を出た。
胸の前に抱えて歩くと、カルロスが両腕で作った輪を思い出した。火ではない。本だ。それでも、落とさないように歩いた。
生け垣の外で、庭師の女が、小さく息をついたのが聞こえた。
エミーリエは、包みをほどいて、本を確かめた。
古い革の、薄い本だった。春告げの絵と、散った花の絵が、見開きに並んでいる。妖精が読んでいた頁には、枯れ葉の栞が挟んであった。
「傷んでいません。よく読まれた本の、傷み方です」
「栞は」
「そのままにしておきましょう。借りている人の頁です」
エミーリエは、帳面の『花の暦』の行の横に、新しく書き足した。
期限、春の終わりまで。その下に、春告げが散るまで、花の暦の春、と。
さらにその下に、一行。授業のため三日、教師へ。三つ目の日の暮れまでに、庭へ戻す。
「同じ行に、二つの春を書くのは初めてです」
エミーリエはそう言って、ペンを置いた。
「返すのは、あなたですね」
「はい。授業が終わったら、ぼくが持っていきます」
「日が暮れる前に」
エルは、梁に並んだ白い小石を思い出した。
「はい」
エミーリエは帳面を閉じた。
授業の日、城で働く人の子供たちが六人、教師の部屋に集まった。
机の真ん中に、『花の暦』が開いてある。古い紙に、春告げの絵と、散った花の絵が並んでいる。
教師は、月の暦の紙を、その隣に置いた。
「春は、いつ終わりますか」
子供たちは、月の名を言った。教師は頷いて、次にエルを見た。
「どの暦で、ですか」
エルが言うと、子供たちが笑った。教師は笑わなかった。
「そのとおりです。どの暦で、と聞き返せる人は、暦を読める人です」
それから教師は、客間の下の花壇の話をした。秋でも咲いている春告げ。それを春と呼ぶ者が、この城に一人いること。
子供たちは、妖精の話を聞きたがった。
教師は、本を借りている人のことは、本人の許しがないので話せません、と言った。子供たちは不満そうだったが、教師は、それ以上は言わなかった。
エルは、少しだけ、妖精が守られた気がした。
授業の終わりに、いちばん小さい子が聞いた。
「客間の下の花は、ずっと咲いてるの」
「今年は、秋になっても咲いています。人が、咲かせています」
「お花は、疲れないの」
教師は、少し考えた。
「分かりません。花に聞いた人がいないので」
子供たちは、それで納得したらしかった。小さい子が、もうひとつ聞いた。
「花の暦と、月の暦と、どっちが本当なの」
教師は、すぐには答えなかった。
「両方です。何を見て決めたかが違うだけで」
エルは、手帳にその言葉を書いた。手帳は仕事のことを書くものだ。これは、仕事のことだった。
授業が終わった日の夕方、三つ目の日の暮れる前に、エルは東屋へ行った。
梁の端に、白い小石が、ひとつだけ残っていた。
包みを梁に載せると、影が屋根の裏から降りてきて、包みの上に乗った。
「三つだ」
「三つです」
妖精は、残った小石を、梁の下へ落とした。それから、包みを押して、屋根の裏へ運んだ。戻ってきて、梁の上に座った。
「ひとの子。春は、いつ終わる」
エルは、庭師に聞いてきたことを、そのまま伝えた。
「客人が帰ると、温め石を抜くそうです。冬の初めです。その晩に、春告げは散ります」
「冬の初めに、春が終わるのか」
「この花壇では」
妖精は、しばらく考えていた。
「分かった。それまで、本はわたしが読む。散ったら、返す」
「散ったら、ぼくが知らせに来ます。約束です」
「約束だ」
妖精は、翅をたたんだ。
「ひとの子らは、春がいつ終わるか、言えたか」
「月の名を言いました。花を見ていた子も、一人いました」
「そうか。一人か」
「ひとの子。春を止めているのがひとだと、わたしは知らなかった。本には、書いていない」
「本には、書いていないことがあります」
「そうらしい」
妖精は、翅を少し開いた。
「ひとの子。春告げが散ったら、ひとは何をする」
「いつもの年なら、夏の服を出します。今年は、冬の服を出したあとで、春が終わります」
「ひとの暦は、やはり分からない」
「わたしは、翅を休める。散った花の下で、次の春まで。今年は、まだ休めない」
「名前を、聞いてもいいですか」
「名は、ひとには言わない。庭のかた、でいい。帳面にも、そう書いてあるのだろう」
「書いてあります」
「それでいい」
影は、屋根の裏で丸くなった。
帰り道、庭師の女が言った。
「殿下。冬の初めに石を抜く日は、私からもお知らせします」
「お願いします」
「それと」
女は、少し間を置いた。
「来年の春に、春告げが咲くかどうかは、分かりません。咲いたら、あのかたに、もう一度本を貸してもよいか、司書どのに聞いてみます」
「ぼくも、頼みます」
夕方の片づけの熱が流れると、カルロスは敷石の上にいた。
エルは、三日の約束と、帳面の二つの春の話をした。カルロスは、珍しく、途中で笑った。
「その花壇は、私の頃にもあった。春告げは、春にだけ咲いていた。客間の窓から、誰かが見ていた覚えはないな」
「今は、客人のために、人が咲かせています。カルロスさんの頃には、温め石はなかったんですか」
「聞かなかったな。花壇の石は」
カルロスは、格子の上を見た。
「きみの暦と、妖精の花と、私の熱と。三つとも、春の終わりが違う」
「でも、日の暮れる数は、同じです」
「そうか」
カルロスは、少しのあいだ、何も言わなかった。
「それなら、私の時間も、数えられるな」
どういう意味か、エルは聞かなかった。聞かないほうがいい気がした。
手帳を開いて、書いた。
妖精。春告げが散るまで。冬の初めに、知らせに行く。
その下に、小さく、もうひとつ書いた。
カルロスさん。夕方の熱が、古い回廊に流れなくなるまで。
妖精の行には、冬の初め、と書けた。カルロスの行には、それがいつなのかを、書けなかった。壁の中の道が直る日を、エルはまだ知らない。




