次の借り手
東屋の梁の上で、妖精は、エルの話を最後まで聞いた。
春告げが散らない理由。土の中の温め石。客間から春が見えるように、人が三日ごとに石を替えていること。
「ひとが、春を止めているのか」
「止めているつもりは、ないと思います。花壇をきれいにしているだけで」
「同じことだ」
妖精は、翅を広げて、たたんだ。
「花は、散って次の春を待つ。散らせないのは、待たせないということだ。ひとは、それを、きれいと言うのか」
エルは、答えられなかった。客間の窓から見える白い花壇を、きれいだと思ったことは、自分にもある。
「では、話は早い。石を抜けば、春告げは散る。春が終わる。わたしは約束どおり、本を返す」
それは、エルが昨日、手帳に書いて「?」を足したことだった。
「石は、ぼくのものではありません」
「ひとの子なら、ひとに言えるだろう」
「言えます。でも、ひとが聞くかどうかは、別です」
「それは、ひとの事情だ」
妖精は、それで話が済んだという顔をした。梁の上から、屋根の裏へ戻っていく。
「待ってください。本を、三日後に使いたい人がいます」
影が止まった。
「春が終わる前に、か」
「授業で。古い暦と今の暦を比べる授業です。『花の暦』が要るんです」
「春が終わる前には、返さない」
妖精の声は、やはり怒ってはいなかった。
「約束は、約束だ。ひとが春を止めたなら、ひとが春を終わらせればいい。わたしは待っている」
「散るのを、ですか」
「本には、散った花の絵がある。春告げが散って、春が終わる絵だ。わたしは、それを待っている。石を抜かれて散る絵は、本にはない」
「それでも、石を抜けと言うんですか」
「わたしの春は、わたしが決めるのではない。花が決める。花を止めたのがひとなら、ひとが戻せばいい。それだけだ」
「三日は、待てませんか」
「三日。ひとの三日は、わたしの三日と同じだ。待てる。だが、待っても春は終わらない。終わらない春の中で、本を渡す理由がない」
影は、巣のように丸くなった。
エルは、東屋を出た。三日、と妖精は言った。聞き返さなかった。それだけが、手帳に書けることだった。
庭師の女は、客間の下の花壇で、枯れた葉を摘んでいた。
「殿下。石を抜く、というお話でございますか」
エルが言う前に、女のほうから言った。工房の親方から、荷運びの男を通して、話が伝わっていたらしい。この城では、話が人より早く歩く。
「抜けば、春告げは一晩で散ります。それは本当です」
女は、花の根元の土を、指で押さえた。
「でも、殿下。春告げは、春に咲いて春に散る花です。秋に散らされた花が、次の春にまた咲くかどうかは、私には分かりません。根が、季節を間違えたままになる」
「来年、咲かないかもしれない」
「かもしれない、です。試した人がいませんので」
女は、花の根元の土を少し寄せて、指の先ほどの白い芽を見せた。
「来年の芽が、もう土の下にあります。花は咲いたまま、根は次の春の支度をしている。石を抜けば、芽ごと冷えます」
それから、女は客間の窓を見上げた。
「それに、来月は、峠の向こうから客人が参ります。客間から春が見えるように、というのは、そのためです。私が決めたことではございません」
誰が決めたのか、とは聞かなかった。帳場か、もっと上か。どちらにしても、見習いが石を抜ける花壇ではない。
「ですが、殿下」
女は、摘んだ葉を籠に入れながら、続けた。
「私も、今ここから石を抜きたくはございません。十年、この花壇を世話してきました」
エルは、手帳の「石を抜く」の上に、線を引いた。
抜けない。抜いても、花が来年咲かないかもしれない。それに、客人のための春を、見習いが終わらせることはできない。
「あのかたは、春告げが散るのを待っておられます。春告げを散らせるのは、私どもには、できません。どちらも、間違ってはおりません」
「分かっています」
分かっているから、困っている。
女は、エルの手帳の線を、見ないふりをした。
教師の部屋は、その足で訪ねた。
「日付は、動かせませんか」
「動かせません」
教師は、下書きの紙から顔を上げなかった。
「月が替わる日に、暦の授業をする。それが、暦の授業です。日付を動かした暦の授業では、子供たちに笑われます」
「本がなくても、授業は」
「できます。できますが、『花の暦』の春告げの絵を見せたい。絵を見て、散った花の絵を見て、それで春が終わる、と自分で気づいてほしい。言葉で説明すれば、ただの知識になります」
「妖精は、本のとおりに、古い暦で約束しています」
「それなら、妖精は正しい。古い暦の中では、ですが」
教師は、下書きの紙の、古い暦のほうを指で押さえた。
「正しい暦が二つあると、約束がひとつ、宙に浮く。それを子供たちに見せられるのは、今度の授業だけです」
教師は、そこで初めて顔を上げた。
「殿下。本を借りている人に、無理を言うつもりはありません。返ってこなければ、言葉で教えます。ただ、三日後までは、待ちます」
「日付を変えれば、親たちの都合が付きません。城で働く人の子の授業は、親の休みに合わせてあるので」
無理を言わない人が、日付を動かさない。それが、いちばん困る。
その晩、小図書館で、エルは手帳に三つを並べた。
妖精。春告げが散るまで、本は返さない。約束だから。
庭師。春告げは、散らせない。客人のため。来年のため。
教師。三日後に、本が要る。授業の日は、月が替わる日に合わせてある。
三つとも、動かない。どれも、理由がある。
「エミーリエ。期限を書いたとき、春の終わりが、どの春か、聞きましたか」
エミーリエは帳面を閉じて、少し黙った。
「聞きませんでした。言われたとおりに、春の終わりまで、と書きました。何の春か、確かめなかった。司書の落ち度です」
エルは、閉じた帳面を見た。
「あなたが見つけたのは、約束の言葉が、二つの意味を持っていたことです。妖精が間違ったのでも、私たちが間違ったのでもない。言葉が、足りなかった」
「期限は、借りる人と貸す人が、同じに読めるものでなければ、期限ではありません。私は、それを怠りました」
「足りなかった言葉を、足せますか」
「足すには、両方が同じに読める言葉が要ります」
「本を、写せませんか。授業の分だけ」
「三日では写せません。絵が多い本です。絵を写すのは、字を写すより時間が掛かる」
「では、別の春告げを」
「ほかの花壇の春告げは、春に散りました。秋に咲いているのは、客間の下だけです」
「妖精に、人の暦を教えるのは」
「借りた本のとおりに約束を守っている人に、本と違うことを教えるのですか」
エルは、首を振った。それは、約束を破れと言うのと同じだった。
同じに読める言葉。
エルは、東屋の妖精と、花壇の庭師と、机の上の下書きの教師を、順に思い浮かべた。暦は違う。春は違う。
それでも、妖精は、三日後、と言ったときに、聞き返さなかった。ひとの三日は、わたしの三日と同じだ、と言った。
日の数は、通じている。
エルは、手帳の三つの下に、一行書いた。
日は、誰にでも同じに暮れる。
書いてから、しばらく見ていた。それが答えなのか、答えの手前なのか、まだ分からなかった。
窓の外で、日が暮れた。妖精のいる東屋でも、客間の下の花壇でも、教師の部屋でも、同じ日が、同じに暮れたはずだった。




