花の暦
翌朝、客間の下の花壇に、荷運びの男がいた。
荷車の上に、拳より少し大きな石が、十ほど並んでいる。どれも黒く、磨いてある。男は花壇の縁に膝をつき、土の中から同じ石を掘り出しては、荷車の石と入れ替えていた。
「殿下。足元が、ぬかるんでおります」
「それは、何ですか」
「温め石で。術具の工房で力を入れた石を、三日ごとに替えます。この花壇は、土が冷えないようにしてありますので」
男は、掘り出したほうの石を、エルの手に載せた。ほんのりと温かい。三日分の力を、土に吐き出して、尽きかけている石だ。工房の棒の先の黒い石と、同じ石だった。
掘り出した穴のまわりだけ、土が黒く湿っていた。今朝は霜が降りたのに、ここは凍っていない。
「春が終わってからも、替えていたんですか」
「はい」
「どうして、この花壇だけ」
「客間から見えますので。客人に、花を見ていただくように、と」
「誰が、そう言ったんですか」
「さあ。私は運ぶだけで」
前にも聞いた言い方だった。
「石は、どこで」
「術具の工房で。三日ごとに十ですからな。工房の仕事の、少なくない分が、この石です」
男は、最後の石を土に埋め、上から落ち葉をかけた。春告げの白い花が、その上で揺れている。
春告げは、散らないのではなかった。散らせてもらえないのだ。
エルは、花壇の縁に立って、白い花と、男の荷車を見比べた。三日ごとに、石が十。この花壇の春は、誰かが運んでいる春だった。
午後、エルは術具の工房へ走った。
ルートヴィヒ親方は、温め石の話を聞くと、棚から同じ石をひとつ下ろした。
「土地の力を、石に入れる。棒の先の石と、同じですな。棒の石は、術を起こすのに使う。花壇の石は、熱に変えて、ゆっくり土へ逃がす。三日で尽きる」
「客間の花壇では、秋にも春の花を咲かせておくんですね」
「帳場から、そう言われておりますでな。客が来たとき、庭が枯れていては具合が悪い、と」
「石は、三日ごとに十、要るんですね」
「そうですな。土地から取った力を、それだけ、この花壇に回しておる」
親方は、惜しむ口ぶりではなかった。ただ、数を言っただけだった。
「客人は、そんなに来るんですか」
「この国は、峠の向こうとも、川の下とも、話をして食っている国ですからな。客間が空く月は、少ない」
親方は、石を棚に戻した。
「春を止める、とは誰も言いませんな。花壇を保つ、と言う。言い方が違うだけで、やっていることは同じですが」
「殿下。なぜ、それを」
「春告げが散らないので、妖精が本を返してくれないんです。約束は、春が終わるまでで」
親方は、ふむ、と言った。妖精、と聞いても、驚かなかった。この城の大人は、たいてい驚かない。
「石を抜けば、どうなりますか」
「一晩で土が冷えます。秋ですからな。春告げは、朝には散っているでしょう」
「散ったら、春が終わります」
言ってから、エルは口を閉じた。親方は、何も言わなかった。言わないまま、エルを見ていた。
「殿下。石を抜くなら、帳場に言ってからですな。工房の石は、工房のものではない」
「分かっています」
手帳に書いた。温め石。三日ごとに十。帳場の指図。
客人のため。石を抜けば一晩で散る。抜くなら帳場に。
最後の一行の下に、線を引いた。引いただけで、その先は書かなかった。
夕方、エルは教師の部屋を訪ねた。
『花の暦』の授業で、何を教えるのか。妖精に会う前に、聞いておくべきだった。
「古い暦です」
教師は、机の上の紙を一枚、エルに向けた。授業の下書きだという。きちんとした字で、二つの暦が、左右に並べて書いてある。
「今の暦は、月の名で季節を切ります。春は三つの月、夏は三つの月。年がいくつ替わっても、春の長さは同じです。でも、古い暦は、花で切った。春告げが咲いたら春で、春告げが散ったら春が終わる。『花の暦』は、その頃の本です。王家の子供に、季節を教えるための本だった」
「散った日が、春の終わり」
「そう。土地によって、年によって、春の長さが違う暦です。山の村の春は短く、川の町の春は長い。便利ではないので、月の暦に替わりました。けれど、花を見て季節を決める人は、今もいます。農家は、暦より花を見る」
「どちらが、正しいんですか」
「どちらも暦です。正しいかどうかは、何に使うかで決まる。税を集めるなら月の暦、種をまくなら花の暦」
教師は、紙の真ん中に指を置いた。
「授業では、二つを並べて、どちらが正しいかではなく、何を見て季節を決めているかを教えたい。それだけです」
エルは、下書きの紙を見つめた。
妖精は、人の暦を読まない。けれど『花の暦』は読んだ。春の初めに、どうしても読みたいと言って借りた本だ。
春が終わるのは、春告げが散ったとき。
妖精は、自分の決まりで言っているのではなかった。借りた本に、そう書いてある。人が書いた本のとおりに、約束を守っている。人のほうが、本を替えてしまっただけだ。
「先生。『花の暦』を借りているのは、庭の妖精です」
教師は、少しだけ眉を上げた。それから、紙を引き寄せて、何か書き足した。
「それなら、授業で話すことが、ひとつ増えました」
「返ってくるかどうかは、まだ分かりません」
「四日後です。それまでに、お願いします」
教師は、穏やかに、しかし日付は動かさずに言った。
「授業は、月が替わる日に合わせてあります。暦の授業ですから」
「殿下の午前の授業でも、同じ話をします。先に答えを知ってしまいますね」
「知っても、答えは変わりますか」
「変わりません。知ってから考えるのと、知らずに考えるのが、違うだけで」
「殿下も、その授業にいらっしゃい。城で働く人の子の授業ですが、本を持ってくる人なら、席があります」
「本が、返ってきたら」
「返ってこなくても、席はあります」
帰りに、エルは客間の下の花壇に寄った。
日が落ちかけて、白い花が、暗がりの中でまだ白い。土の下で、温め石が、三日分の熱を吐いている。
妖精は、春告げが散るのを待っている。春告げは、人が散らせない。人は、客間から春が見えるように、石を埋めている。教師は、月が替わる日に、暦の授業をする。
誰も、間違ったことはしていない。間違っていないものを三つ並べると、本が返ってこない。
エルは、花壇の縁にしゃがんだ。
石を抜けば、一晩で散る。春が終わる。妖精は約束どおり本を返す。教師は四日後に授業ができる。
簡単だ。
簡単だと思ったとき、自分がいつも何かを後回しにしていることを、エルはもう知っていた。炎を運ぶ術を試したときも、本を二冊に戻そうとしたときも、そうだった。
石を抜いた朝を、思い浮かべてみた。白い花が、一晩で茶色になっている。それを最初に見るのは、客間の客ではない。東屋の妖精だ。
春が終わるのを待っていた妖精が、終わった春を見る。それは、妖精が望んだ終わり方なのか。
客間の窓に、明かりがついた。誰かが、窓辺に立って、花壇を見下ろしている。遠くて、顔は見えない。白い花は、あの窓のために咲いている。
窓辺の人は、すぐに離れた。明かりは、ついたままだった。
手帳を開いて、「石を抜く」と書いた。その横に、今度は、小さく「?」を足した。
誰の春を、終わらせるのか。




