散らない花
午前の授業の教師が、小図書館に来るのは珍しかった。
「『花の暦』を、お借りしたい。五日後の授業で使います」
教師は、城で働く人の子供たちにも、月に一度、暦の授業をしている。今度は、古い花の暦と今の月の暦を比べる授業にするのだという。
エミーリエは帳面をめくった。指が、途中で止まった。
「貸し出しています。春の初めから」
「春の初めから、ですか」
「期限は、春の終わりまで、と」
教師は何も言わなかった。言わなくても、窓の外の木は、半分が葉を落としている。
「春の終わり、というのは、ずいぶん大まかな期限ですね」
「借りる人が、そう言いましたので。そのとおりに書きました」
エミーリエは、帳面をエルのほうへ向けた。
『花の暦』。貸出先、庭のかた。庭師の紹介。期限、春の終わりまで。
エミーリエのきちんとした字で、そう書いてある。
「催促は、見習いの仕事です。庭師に、案内してもらいなさい」
「庭のかた、というのは」
「お会いになれば、分かります」
分からないことは分からないままにしておく人が、分かります、と言うのは初めてだった。
「春の初めに、庭師が紹介状を持ってきました。借り手は、庭の東屋に住むかた、と。外のかたでも、紹介があれば貸します。それが、この図書館の決まりですから」
「返ってこないことは」
「これまで、一度もありません。だから、催促も初めてです」
教師が帰ってから、エミーリエは、もうひとつ言った。
「催促は、取り上げに行くのではありません。返す日を、一緒に決めに行くのです。相手の言い分を、先に聞きなさい」
エルは頷いた。頷いてから、庭のかた、と手帳に書いた。何を書けばいいのか、まだそれしかなかった。
庭師の女は、客間の下の花壇で、落ち葉を集めていた。
「殿下。『花の暦』の催促でございますね。司書どのから聞いております」
女は籠を置き、手を拭って、先に立って歩いた。
庭は、どこを見ても秋だった。生け垣は半分が茶色で、小道には落ち葉が積もり、水盤の水は冷たそうに澄んでいる。
「今年は、霜が早うございます。あと十日もすれば、庭は冬の支度です」
客間の下の花壇だけが、秋ではなかった。
白い小さな花が、膝の高さに、いっぱいに咲いている。春告げ、と呼ばれる花だ。春のいちばん初めに咲いて、春の終わりに散る。
エルでも知っている。子供の頃、この花が咲くと、冬の服をしまってよいと言われた。散ると、夏の服を出した。
ほかの花壇は、もう土が見えている。この花壇だけ、白い。
「ここだけ、春なんですね」
「客間から見えますので」
女はそれだけ言って、庭の奥へ進んだ。それ以上は、聞いても答えない言い方だった。
生け垣の向こうに、小さな東屋があった。柱が四本と、屋根だけの、古い東屋だ。屋根の板は苔で緑になっていて、人が使った跡はない。
「庭のかたは、こちらに」
女は東屋の手前で足を止め、屋根の下を手で示した。自分は入らなかった。東屋の中は、女の持ち場ではないらしかった。
屋根の裏に、鳥の巣ほどの影があった。影が動いて、梁の上に降りてきた。
人の形をしていた。エルの手のひらに乗るほどの、人の形。背中に、薄い翅がある。
着ているものは、枯れ葉の色をしていた。顔は、若いとも年寄りとも言えなかった。
妖精だ。
物語の中でなら、何度も読んだ。城の庭にいるとは、聞いたことがなかった。
「ひとの子。見習いだな」
声は、小さいが、はっきりしていた。
「エルです。小図書館の見習いです。『花の暦』を、お返しいただきに来ました」
「返す。約束は、春が終わるまでだ」
「はい。ですから」
「春は、終わっていない」
妖精は、梁の上から、生け垣の向こうを指した。客間の下の、白い花壇のほうだ。
「春告げが、咲いている」
エルは、言葉に詰まった。
「今は、秋です。暦では、春は三つ前の月に終わっています」
手帳の裏に書いてある月の名を見せた。妖精は、見なかった。
「それは、ひとの暦だ。春告げが散ったら、春は終わる。散っていない」
「でも」
「約束を破ったことは、一度もない」
妖精の声は、怒ってはいなかった。ただ、譲らなかった。
エルは、東屋の梁と、生け垣の向こうの白い花を、見比べた。
人の暦では秋で、花では春。同じ「春が終わるまで」を、違うもので測っている。
約束を破った、と言いかけて、やめた。言えば、妖精は二度と話さない気がした。相手の言い分を先に聞きなさい、と言われてもいる。
「本を、見せてもらえますか」
「春が終わるまでは、わたしの本だ」
「読んでいるんですか」
「読んでいる。ひとが春をどう書くのか、読みたかった。それで借りた」
「どう書いてありましたか」
「花で書いてあった。ひとも、昔は、花で春を書いたのだな」
「どうして、春が終わるまで、にしたんですか」
「春の本だ。春のうちに読む。終わったら返す。それで足りると思った」
妖精は、屋根の裏を見上げた。影の奥に、布の包みがあるらしかった。
「ひとの子」
妖精のほうから、言った。
「今年の春は、長い。長すぎる。春告げは、散るはずの時期をとうに過ぎて、まだ咲いている」
「気づいていたんですか」
「気づいている。わたしには、理由が分からない」
妖精は、翅を一度たたんだ。
「春が終わったら、本は返す。だから、春が終わったら、教えに来てくれ。わたしには、分からなくなった」
それは、催促に来た相手への、頼みだった。
「分かりました。春が終わったら、知らせに来ます。終わらない理由も、調べます」
妖精は、屋根の裏へ戻った。影が、巣のように丸くなった。
帰り道、庭師の女が言った。
「殿下、あのかたは、嘘はつきません。ただ、人の暦は読みません。月の名を言っても、通じません。春も秋も、庭の花で数えておられます」
「本は、読むんですか」
「読みます。『花の暦』は、春の初めに、あのかたがどうしても読みたいと言った本です。私が紹介しました」
「どうして、庭師のあなたが」
「庭にいる者同士で」
女は、それ以上は言わなかった。生け垣の角で、落ち葉の籠を拾い上げて、花壇のほうへ戻っていった。
夕方の片づけの熱が流れると、カルロスは敷石の上にいた。
エルは、妖精の話をした。春が終わるまでの約束。咲き続ける春告げ。春が終わったら教えに来てくれ、という頼み。
「妖精か。ハルデの川には、いなかった。山のほうにはいる、と聞いた」
「約束は破っていない、と言っていました。春告げが咲いているあいだは、春だから、と」
「約束を守っている相手は、破っている相手より、話が難しい」
カルロスは、格子の上を見た。暗くなるのが、一日ごとに早い。
「きみの暦では、もう秋だな」
「はい」
「私のところには、季節が来ない。来るのは、夕方の熱だけだ」
それは、寂しい言い方ではなかった。ただ、そうだと言っているだけだった。
「カルロスさん。熱は、冬のほうが長く流れますか」
「さあ。数えたことがない」
「きみは、どちらの春で答えるんだ。暦か、花か」
「まだ、分かりません」
「分からないなら、まだ答えないほうがいい」
夕餉の鐘が鳴る前に、エルは手帳を開いた。
聞いたこと。約束は、春が終わるまで。妖精は、春告げが散るのを春の終わりにしている。春告げは、客間の下の花壇だけ、秋でも咲いている。
確かめたこと。妖精は、人にも見える。本は、東屋の屋根の裏にある。
外れた考え。妖精が約束を破った。
次に確かめること。春告げは、なぜ散らないのか。
最後の一行を書いてから、エルは、もうひとつ足した。
春が終わるとは、誰が決めるのか。




