【エピローグ】書き出しだけの手紙
達者か。便りを読んだ。
紙には、そこまで書いてある。夏の前に書いて、そのまま机に置いてあった。
荷運びの男は、非番の朝、その紙の前に座った。火の試しの日のことなら、ひと晩で書いて上へ出した。この一枚は、夏を越している。
宛先は、昔、同じ門に立っていた男だ。今は峠の番所にいる。春に来た便りには、番所の裏に蕪の種をまいたら、芽のうちに山羊に食われた、と書いてあった。
男はペンを取って、続きを書き始めた。こちらは、と書いたところで、手が止まった。変わりない、と続けるつもりだった。
変わりないかどうかは、まだ分からない。
火の試しの日、炎は殿下の足元まで来た。止めたのは親方で、自分は一歩遅れた。上へ出した報告にも、そのとおりに書いた。沙汰は、まだ来ない。
来れば、変わる。来なくても、書けることは少ない。誰を守っているのかは、昔の相棒にも書けない。
戸が、二度鳴った。
「いますか」
同じ棟の若い荷運びが、麻の袋を肩に掛けて立っていた。
「峠回りの便りを、門まで運ぶところで。昼の鐘で出ます。次は十日あとだそうです。出すものは」
「ない」
口が先に答えていた。
「いつも、ないですね」
「私は運ぶだけだ」
若い荷運びは笑って、袋を掛け直した。足音が、廊下を遠ざかっていく。
男は、机の紙に目を戻した。こちらは、の先が白い。
「工房の親方は、手紙を先に読みます。殿下の話は、その後で」
町へ下りる坂で、殿下にそう言ったのは、自分だった。前の日の帰り、殿下は荷車の上で、一度も手帳を開かなかった。箱を膝に抱えて、黙っていた。それで、口を出した。
殿下は何か言いかけて、やめた。工房の戸口から見ていると、親方は手紙を先に読んだ。殿下の話は、その後だった。じきに、見習いの女の子が針を持った。
人には、言えるものだ。
男はペンを持ち直した。まとまった話は、何もない。あるものだけを書いた。
こちらは、荷を運んでいる。手の皮が、また厚くなった。このところ町の川べりへよく下りるので、袖に川の匂いがついて、洗っても取れん。
先のことは、分からん。分かったら、また書く。
蕪は、まき直したか。山羊は、どうなった。
書き足したくなる前に、紙を畳んだ。表に、峠の番所と、相手の名を書いた。
昼の鐘には、まだ間がある。男は棟の出口で一度、足を止めた。癖で、荷車の柄を探していた。紙一枚に、荷車は要らなかった。
門へ行く道は、小図書館の窓の下を通る。あの窓は低い。
エルは、棚の前に立っていた。本を一冊、背だけ見ている。手は、後ろで組んであった。
あの箱で運んだ本だろう。糸がどうなったのか、男は聞いていない。小図書館の前では、庭師の女が落ち葉を掃いていた。今日の当番は、女だ。
手が後ろにあるあいだは、火傷はしない。男は足を止めずに通った。
門の脇で、若い荷運びが袋の口を縛っていた。
「一通、あった」
男が紙を出すと、若い荷運びは、紙と男の顔を見比べた。それから、縛りかけた口をほどいた。
部屋に戻ると、机の上に、紙の形のまま、埃のないところが残っていた。夏の前から、あの紙を一度も動かさなかったのだ。
男は、その上に何も置かなかった。
沙汰は、まだ来ない。峠からの返事も、早くて二十日はかかる。
待つものが、二つになった。




