34話:幕間 二つの命令
財務卿府の執務室に、二通の命令書が並んでいた。
ヴィクトール・ハイゼンは椅子に座ったまま、それを見下ろしている。一通は商務局宛。もう一通は王室発給の公金輸送命令書。後者にはまだ署名がない。
監査院に上がった報告書は読んだ。転売ネットワークの摘発。産地偽装。取引記録の提出。
転売だけなら末端の話だ。だが取引記録を辿られれば、循環取引の輪に届く。輪の中心にはエルスト商会がいる。そこから先——自分に届くまでの距離は、もう短い。
ヴィクトールは机の上の命令書に目を落とした。
一通目。主要商会への一斉営業停止命令。
名目は「不正取引に関連する緊急調査」。転売の摘発があった直後だ。関連調査として商会を止める理由には困らない。皮肉なことに、あの小娘が作った名目だった。
商会を止めれば帳簿を回収できる。回収すれば破棄できる。循環取引の証拠は消える。
ただし、副作用がある。
商会が止まれば取引が止まる。取引が止まれば帳簿上の売上が消える。売上が消えれば、それを信用にしていた融資が焦げつく。連鎖する。
あの小娘が監査院に何を言ったかは知らない。だが循環取引の構造に気づいているなら、一斉停止の意味も理解しているはずだ。
構わない。証拠さえ消えれば、後は収拾できる。
二通目。辺境アーレン領への公金輸送命令書。
名目は辺境防衛補助金。封印金庫による輸送。領主本人が受領署名し、開封時に金額を確認する。
以前、同じ手を使ったことがある。詳しく覚えてはいないが、近衛にいた男。横領を報告してきた邪魔な騎士を消す時に使った。封印金庫に金を入れ、届け先で開けさせ、中身が足りない。抜いたのはお前だ、で終わり。
あの時は完璧だった。
輸送記録の改竄。口止め。重量の調整。自分は実行しただけだが、全ての工程を見ていた。同じことを再現するのに、何の問題もない。
送り先があの女の領地に変わるだけだ。簡単な話だ。
二つの命令を同時に動かす。一斉停止で王都が混乱すれば、監査院の目は王都に釘付けになる。辺境の小さな領地で何が起きても、誰も見ていない。
ヴィクトールは椅子から立ち上がった。
公金輸送命令書を手に取った。緊急扱い。この書式には王族の署名が要る。
使える王族は一人しかいない。
***
王子の居室は、相変わらず無駄に広かった。
レオナルドは鏡台の前に座っていた。髪を整えている。丁寧に。左右の対称を確かめて、前髪の位置を直して、満足げに頷く。
ミレーヌがソファに座って刺繍をしていた。穏やかな午後の光。絵に描いたような王族の昼下がり。
「殿下、今日のお召し物、とてもお似合いですわ」
「そうだろう。この仕立て屋は腕がいい」
鏡の中の自分に頷いた。髪も服も完璧。部屋も広い。側妃候補の女も隣にいる。足りないものは何もない。
——はずだった。
レオナルドは鏡から目を逸らした。
あの辺境で帳簿を突きつけられて追い返された。送り込んだトビアスにも逃げられた。二度負けた。
三度目を仕掛ける手札がない。ドルトンは使えない。父は密告で自滅した。新しい駒もない。
やりたいことはある。やる手段がない。
「殿下、そろそろお茶にしませんか」
「ああ」
茶を飲んだ。菓子を食べた。ミレーヌと他愛ない話をした。午後が過ぎていく。こういう日がもう何日目だろう。
プライドだけは折れていない。それが唯一の支えだった。
ノックの音がした。
「殿下、財務卿ヴィクトール・ハイゼン様がお目通りを」
レオナルドの眉が動いた。財務卿。名前は知っている。だが直接会ったことはほとんどない。王子に用がある人間ではないはずだ。
「……通せ」
ヴィクトールが入ってきた。長身。白髪混じり。表情が読めない顔。レオナルドより二十は年上の男が、丁寧に頭を下げた。
「お忙しいところ恐れ入ります、殿下」
忙しくなどない。だがレオナルドは頷いた。
「何の用だ」
「一件、殿下のご裁可を頂戴したい書類がございます」
ヴィクトールが命令書を差し出した。公金輸送命令書。辺境防衛補助金。緊急扱い。
レオナルドは書類に目を通した。内容は分かる。辺境に金を送る。それだけ。
「辺境防衛補助金? こんなものがあったか」
「緊急の防衛需要に対応する特別枠です。殿下の署名があれば、即日発効いたします」
「……で、送り先は」
「アーレン領です」
レオナルドの目が変わった。
鏡から離れた。菓子を置いた。午後のぼんやりした空気が、一瞬で消えた。
「……アーレン領。あの女のところか」
「左様です」
ヴィクトールの声は平坦だった。
「封印金庫で公金を輸送します。領主本人が受領署名し、開封して金額を確認する。もし開封時に金額が合わなければ——」
「横領か」
「殿下のお察しの通りです」
レオナルドが命令書を二度読んだ。封印金庫。受領署名。開封時に不足。
分かった。最初から足りない金庫を送る。開けた側が抜いたことになる。署名した領主の責任。
「殿下は署名をなさるだけです。後は全て、こちらで」
「それで、あの女が横領犯になると」
「なります」
レオナルドは立ち上がった。
これだ。待っていたのはこういう話だ。手札がない。駒がない。策がない。——そこに、外から手が差し伸べられた。
「いい話だ」
椅子から離れて歩いた。部屋の中を行ったり来たりする。足が勝手に動いている。
「いい話じゃないか。あの女が横領犯。追放された先で公金に手をつけた元公爵令嬢。最高だ」
ミレーヌがソファから顔を上げた。
「殿下、よかったですわね。きっとうまくいきます」
「ああ、今度こそだ」
ヴィクトールは黙って立っていた。
レオナルドは命令書を手に取った。ペンを探す。インク壷の蓋を開ける。
「あの女には二度やられた。三度目はない」
署名した。
王族の筆跡。公式の印。緊急扱いの公金輸送命令書が、効力を持った。
ヴィクトールが命令書を受け取った。
「ありがとうございます、殿下。お手を煩わせました」
「礼はいい。結果を楽しみにしている」
ヴィクトールが一礼して退室した。足音が廊下に消えていく。
レオナルドは窓際に立った。腕を組んで、王都の街並みを見下ろしている。
「ミレーヌ、聞いたか。あの女が終わる」
「ええ、殿下。待った甲斐がありましたわね」
「ああ。——俺は最初から、こうなると分かっていた」
何もしていない。署名しただけだ。策を考えたのは自分ではない。だがレオナルドの中では、もう「自分の勝利」として完成していた。
鏡台に戻って、もう一度髪を整えた。
***
財務卿府に戻ったヴィクトールは、署名済みの命令書を机に置いた。
二通が揃った。
一斉営業停止命令と、公金輸送命令書。どちらも明日、同時に動く。
椅子に座った。窓の外の王都を見た。
自分が回した金で動いている街。自分が止めようとしている街。
ヴィクトールは窓を閉め、灯りを消した。明日の段取りを確認する気にもならなかった。もう決めたのだ。これ以上、考えることはない。
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