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【完結保証】数字しか信じない帳簿令嬢は、無愛想な護衛騎士の9999だけ読み解けない  作者: Lihito
【第2章:王都謀略編】

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33/50

33話:安心して

アーレン領に帰ってきた。


馬車を降りた瞬間、空気が違うと思った。王都の密度とは違う、広くて冷たい北の風。何日ぶりだろう。十日は超えている。


「おかえりなさいませ、アイリス様」


セバスが玄関に立っていた。いつも通り。この人は帰りの日をどうやって読んでいるのだろう。手紙を出したわけでもないのに。


「ただいま。留守中の帳簿は」


「お机の上に」


執務室に入った。帳簿を開いた。収支、住民対応、物資の受発注。どれも抜けがない。軟膏の出荷記録もある。品質停止の期間中も、在庫管理と原料の仕入れは止めずに回してくれていた。


「トビアスと相談して、停止が解けた直後に出荷を再開できるよう準備しておきました」


「……完璧ね。いつも通り」


「恐れ入ります」


セバスが紅茶を置いた。温度がちょうどいい。


***


午後、領地を回った。グレンが隣を歩いている。


道が伸びていた。南の倉庫は壁まで出来上がっている。住居の修繕も進んでいる。ルッツたちは留守中も止まらなかったらしい。


「……いい領地になりましたね」


グレンが言った。


足が止まった。


この人が、自分から何かを言う。それだけで珍しい。まして「いい領地」と評価めいたことを口にするなんて。


「前は悪い場所だったの?」


「いえ。……ただ、以前とは別のものになったと思います。別の場所と比べるなら」


「別の場所?」


グレンが黙った。歩きながら、前を見ている。


「王都です。自分がいた頃の」


(珍しい。この人が昔の話をするなんて)


黙って歩いた。聞き手に回る。グレンが話したいなら、聞く。話したくないなら、そのまま歩くだけ。


「……近衛にいた頃の話です」


グレンが言った。声のトーンは変わらない。いつもの低い声。


「悪い場所ではありませんでした。同僚は皆、それぞれ正義があって、良い人間が多かった」


「うん」


「ただ、上官が——屑だった」


敬語から外れた。グレンの口からその言葉が出てきたことに、少し驚いた。


「王国民の税金を横領していました。公金の輸送に立ち会うことがあって、金額が合わないことに気づきました。上に報告しました」


「それで?」


「前線への公金輸送を任されました。封印金庫で受け取って、届け先で開けたら、中身が足りなかった」


「抜いたのはお前だと言われました。封印金庫は開封時に初めて中身が確認される。途中で抜くことは物理的に可能だが、途中で確認する手段がない。渡された時点で足りなかったのか、自分が抜いたのか、証明のしようがない」


「……それで左遷」


「はい。証拠不十分で処分は軽かったのですが、近衛にはいられなくなりました。辺境の護衛任務に回されて——ここに来ました」


足を動かし続けていた。領地の南側を歩いている。倉庫の壁が午後の光を受けている。ルッツたちの声が遠くから聞こえる。


「何が起きているか分からなかった、というのが正直なところです。横領を報告した自分が、なぜ公金を盗んだことにされているのか」


グレンがこちらを見ないまま言った。


「今は、少し分かります。報告したから、消されたのだと。邪魔だったのだと」


「……そうね」


それだけ返した。深追いはしない。


グレンが黙った。しばらく足音だけが続いた。


「少し話しすぎました」


「そんなことないわ」


立ち止まった。グレンも止まった。


「安心して」


グレンの目がわずかに動いた。


「あなたがここにいる理由は、私が知ってる」


一拍、置いた。言葉を選んだわけじゃない。ちゃんと届くように、それだけ。


「正しいことをした人を、正しくないと言った人たちがいた。——それだけのことよ」


グレンがこちらを見た。


「だから安心して。ここでは、そういうことは起きないわ」


笑った。そうしようと思ったわけじゃないけど、口が勝手に動いていた。


グレンが息を止めたのが分かった。


灰色の瞳が、こちらを捕えたまま動かない。いつもの護衛の目じゃなく、初めて見る目だった。何が映っているのか分からない。——胸の奥が、ざわついた。


風が吹いて髪が揺れた。それでもグレンの目は動かなかった。


耳の先が、赤くなっていた。


「……守るのは自分の仕事です」


声がかすかに上擦っていた。


「護衛ですから」


(この人、また同じこと言ってる)


笑いそうになったけど、堪えた。追い詰めると歩く速度が倍になるので。


「そうね。護衛ね」


歩き出した。グレンが半拍遅れてついてくる。耳が赤いまま。


***


翌日。ルッツを呼んだ。


執務室に図面用の大きな紙を広げた。


「ルッツ、頼みがあるの」


「何ですか?」


「軟膏事業が安定してきた。出荷先も増える。そうなると、この領地全体をどう整備していくか、先を見て計画を立てないといけない」


「はい」


「倉庫一棟の話じゃなくて、領地全体の話。道、建物、住居、保管施設、荷馬車の通り道。全部含めて、計画を作ってほしい」


ルッツの目が変わった。


「……全体の、ですか」


「そう。あなたに任せたい。三日で出して」


「やります」


***


三日後、ルッツが図面を持ってきた。


大きな紙に、領地の全体図が描かれている。建物の配置、道の計画、倉庫の位置。手を抜いていないのは一目で分かる。線は正確で、寸法も入っている。


ただ。


(……動線がおかしい)


保管庫と作業場が離れすぎている。住居が荷馬車道に面していて、搬入時に住民の動線と交差する。倉庫は大きいが、将来増築する時に隣の建物が邪魔になる配置。


以前、倉庫一棟を任せた時と同じだった。あの時は「建てやすさで場所を選んじゃいました」と言った。今回は領地全体。規模が大きい分、粗がはっきり見える。


「ルッツ」


「はい」


「この保管庫、なぜここに置いたの?」


「地盤が一番安定しているのがここなので」


「作業場との距離は?」


「……すみません、そこは——」


「この住居の並び。荷馬車道との関係は」


ルッツの顔が曇った。図面を見直している。


「……被ってます。搬入の時に住民が避けないと」


「将来、倉庫を拡張する時は」


「——隣の建物、邪魔になりますね」


ルッツが頭を下げた。


「すみません。建物の一つ一つは考えたんですけど、全体の流れが見えてなかった」


分かっている。この子の腕は確かだ。建てる技術は完璧。寸法も材料選びも施工も間違いない。ただ、「何をどこにどう配置するか」——全体の設計を俯瞰する力だけが、追いついていない。


「やり直す?」


「はい。もう一回考えます」


「ルッツ」


「はい」


「腕は一流よ。それは分かってる。ただ——」


言いかけて、やめた。この子に足りないのは努力じゃない。ここに「もう一回考えて」をいくら繰り返しても、同じ種類の粗が出てくる。


ルッツが退室した後、鑑定した。


【ルッツ・ハイデン】

現在価値:1,700

潜在価値:1,700


(到達してる)


前に見た時は1,650だった。あれからさらに伸びて、潜在価値に届いている。この子はもう、持っているものを全部出し切っている。


腕は一流。潜在を全部発揮している。これがルッツの全力。


(惜しいのよ……。1,700のうち100だけでも企画力に回せたら、この子は完璧なのに。……なんてね)


ぼやきだった。独り言にもならない。数字は数字。鑑定で見えるだけで、動かせるものじゃない。


——数字が揺れた。


(え?)


目を瞑って、もう一度開いた。鑑定し直す。


【ルッツ・ハイデン】

現在価値:1,700

潜在価値:1,700

 企画力:100


今まで見えなかった項目が、見えている。


「……何、これ」


内訳。鑑定で対象の内訳が見えたことは一度もない。数字は総額で見えるだけだった。それが今、「企画力:100」という項目が浮かんでいる。


自分がやったのか。さっきの独り言——「100だけ企画力に回せたら」。あれで動いた?


ルッツを呼び戻した。


「ルッツ、さっきの図面、もう一回見せて」


「え、もう修正できてないですけど」


「いいから。さっきの話、もう一回聞かせて。保管庫の配置」


ルッツが図面を広げた。同じ紙。同じ図面。


「えっと、保管庫はここに置いたんですけど——」


指が止まった。自分の図面を見ている。


「……いや、ここはおかしいですね。作業場から遠いし、荷馬車の搬入を考えたら東側の方がいい。それに倉庫の隣に余白を取っておかないと、後で困る」


さっきと同じ人間が、同じ図面を見て、違うことを言っている。


「この住居の並びも、搬入路と被ってます。住居を北寄りにずらして、道の南側を搬入専用にした方が——」


「……ルッツ」


「はい?」


「さっきと、言ってること違うの分かってる?」


ルッツが首を傾げた。


「え……。いや、さっきは建物ごとに考えてたんですけど、今見たら全体の流れが見えるというか」


本人は変化に気づいていない。自然に、当たり前のように、全体を俯瞰した発言が出てきている。


「……いいわ。その方向で計画を立て直して」


「分かりました!」


ルッツが図面を持って出ていった。


一人になった。


(私がやった……?)


手を見た。何も変わらない。鑑定は視るだけの能力だったはずだ。動かせるなんて聞いていない。


もう一度鑑定する。


【ルッツ・ハイデン】

現在価値:1,700

潜在価値:1,700

 企画力:100


数字は残っている。消えていない。つまり一時的なものではない。


(検証が必要ね。もう一度試して、再現できるか——)


ノックの音がした。


「入って」


セバスだった。手に書簡を持っている。封蝋に見覚えのない紋章が押してある。


「王室からの書簡です。急使が届けてまいりました」


受け取った。封を切る。


公金輸送命令書。


名目は「辺境防衛補助金」。緊急扱い。王室から金貨がアーレン領に送られてくる。封印金庫による輸送。受領書への署名を求める内容。


(急にこんなものが? 辺境防衛補助金なんて聞いたこともないけど)


「グレンを呼んで」


「かしこまりました」


セバスが退室した。


命令書をもう一度読んだ。封印金庫。緊急扱い。


——さっきグレンが語った話が、頭の中で重なった。


封印金庫で受け取って、開けたら足りなかった。抜いたのはお前だと言われて、終わり。


(同じだ。同じ単語が並んでる)


グレンの足音が廊下から近づいてくる。


命令書を机に置いた。移転能力の検証は、後だ。


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