13話:幕間 密告
レオナルドが辺境から戻ってきたのは、エドワードが五通目の催促状を破り捨てた翌日だった。
居室に駆けつけた。結果を聞きたかった。連れ戻してくれたのか。帳簿を回せる人間が、戻ってくるのか。
レオナルドは長椅子に横たわっていた。天井を見ている。
「殿下。視察のご報告を——」
「あの女は戻らん」
短かった。それだけ。
エドワードの中で何かが崩れた。最後の望みだった。
「ただ——」
レオナルドが身を起こした。鏡に映る自分の顔を確認するように横を向いた。
「手は打ってある。トビアスという薬師を先に送った。あの女の領地で事業を作らせてる。腕のいい男だ。あいつが事業を握ってる限り、いつでも首根っこを押さえられる」
初耳だった。トビアスという名前も、薬師を送ったことも。
「殿下がそこまでお考えとは——」
「当然だろう。一手で終わると思うほど甘くない」
鏡の前で髪をかき上げた。負けたとは言わなかった。
エドワードは安堵した。まだ手札がある。自分は待っていればいい。
***
一ヶ月が過ぎた。
帳簿は相変わらず読めなかった。東方商会との取引は打ち切られた。催促ではなく、契約解除の通告。支払い遅延が続いたため、と。
監査院からも連絡があった。税収報告の提出期限超過。三度目。次は追加課税の対象になる。
ドルトンは使い物にならなかった。帳簿を見せても「アイリス様のやり方が特殊でして」と言い訳をするばかりで、何一つ進まない。あの男の目が泳ぐのを見るたびに、何かを隠していると感じた。だが問い詰める気力はなかった。
そんな折に、手紙が届いた。
レオナルドの居室に呼ばれた時、王子の顔を見て分かった。
テーブルの上に手紙が広げてある。トビアスの名前。
「殿下、これは——」
「読め」
短い文面だった。管理権の移転には応じられない。アーレン領の加工技術責任者として正式に雇用された。以上。
「……応じられない?」
「あの男は俺を裏切った」
レオナルドの声は低かった。怒りはある。だが、それ以上に退屈している。自分の策が崩れたことに対して、怒りよりも先に飽きが来ている。
「殿下、どうされるのですか。トビアスが——」
「知らん」
「しかし——」
「お前の家の問題だろう、元はと言えば」
レオナルドが長椅子に寝転がった。
「帳簿が回らないのはお前の家の話だ。あの女を追い出したのは——まあ、俺だが。止めなかったのはお前だろう」
「それは——」
「トビアスも使えなくなった。ドルトンは元から使えない。俺にできることはもうない」
手を振った。虫を払うように。
「自分でなんとかしろ」
目を閉じた。もう一度だけ手を振った。出ていけ、と。
廊下に出た。
一人だった。
***
帳簿は回らない。東方商会は切れた。監査院の追加課税が目前。レオナルドにも見放された。
これまでの人生で、面倒ごとは全部誰かに押し付けてきた。帳簿はアイリスに。政治はレオナルドに。実務はドルトンに。三本の柱で公爵家は回っていた。
三本とも、折れた。
執務室に座った。帳簿の山は変わらない。開いても読めない。閉じる。
あの子がいた頃は——。
振り払った。振り払えなかった。
アーレン領の鉱山のことを思い出していた。
先代から引き継いだ仕組み。鉱山の産出が衰えた後も、閉山を伏せて採掘を続けさせた。国への報告は「閉山」。だが実際には細々と掘らせて、上がりを仲介業者——ガイスナー商会——を通じて公爵家に流していた。
アーレン領の前代官も噛んでいた。産出量を過少に報告し、差額を抜く。国には閉山と届け、税を納めない。その分だけ公爵家とガイスナー商会で分けていた。
いつの間にか本当に鉱脈が尽きて、採掘は止まった。だがガイスナー商会への「管理費」の送金だけが、帳簿の上で動き続けていた。金が流れなくなった後も、送金の形式だけが残っていた。それもやがて止まったが、記録は残っている。
アイリスは公爵家の帳簿を管理していた。仲介業者への支払いは「調達顧問料」「管財業務委託」として正当に記帳されていた。あの子は正確に処理していた。仕事として。中身にどこまで気づいていたかは分からない。
だが今、この古い仕組みの残骸が使える。
***
ガイスナー商会の男を呼び出したのは、翌週だった。
痩せた中年の男。金の話になると口が滑らかになる。
「お久しぶりでございます、公爵様」
「座れ。話がある」
扉を閉めた。
「お前のところの帳簿に、アーレン領の鉱山から受け取った管理費の記録があるな」
「ございます。もう何年も前の話ですが——」
「その写しを用意しろ。それと、国の査定官に対して証言をしてもらう」
「証言——」
「アーレン領の鉱山は、国には閉山と届けている。だが実際には閉山後も採掘が続いていた。管理費はその証拠だ。動いていない鉱山に管理費は発生しない」
男の目が細くなった。計算している。
「つまり、脱税の告発ですか」
「そうだ。閉山と届けながら採掘を続け、納税を免れていた。前代官がやったことだ。公爵家としては、自主監査の過程で発見したという形で報告する」
「公爵様のお立場は」
「管理不届きだ。管轄領の不正を見抜けなかった責任はある。だが不正そのものはアーレン領の問題だ。前代官とガイスナー商会が結託して——いや」
エドワードは言い直した。
「公爵家は閉山の告知を受けていたと思い込んでいた。まさか脱税が行われていたとは。責任は全てアーレン領にある」
「……なるほど」
男が頷いた。だが動かない。当然だ。これだけでは、協力する理由がない。
「お前の取り分の話をしよう」
男の目が光った。
「アーレン領で軟膏事業が育っているのは知ってるな」
「ロッソ商会が独占していると聞いています」
「その販路に噛ませてやる。査定が入ればアーレン領の事業は手が止まる。その間にガイスナー商会が間に入る形を作れば、再開後も利権が残る」
「……なるほど」
今度の「なるほど」には、重みがあった。
「証言の内容はこうだ。『管理費を受け取っていた。鉱山の管理業務として、前代官から依頼を受けた』。嘘ではない。送金の記録がある」
「公爵家への支払いの件は」
「名目が違う。顧問料だ。管財業務委託だ。アーレン領の管理費とは別の取引として処理されている。両方の帳簿を照合しなければ繋がらない。それに今回の証言で公爵家の帳簿は関係ない」
「照合できる人間は——」
「あの子しかいない。だが帳簿の処理と記憶は別だ。何年分もの台帳の、特定の業者への支払いを金額まで覚えている人間はいない」
男が頷いた。
「帳簿の写しは明日届けます」
「頼む」
***
ガイスナー商会の男が去った後、エドワードは椅子に座ったまま天井を見上げた。
苦しめてやりたいと思った。
帳簿で王子を追い返し、ドルトンを脅し、公爵家の食料ルートまで奪った娘。あの子のせいで公爵家はこうなった——そう思いたかった。本当は自分のせいだと、心のどこかでは分かっていても。
翌日、ガイスナー商会の帳簿の写しが届いた。
監査院宛の報告書を書き始めた。管轄領内の自主監査において、過去の不審な送金を発見した旨。ガイスナー商会の証言を添付する旨。査定官の派遣を要請する旨。
ペンは震えなかった。
これしか、なかった。
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