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【完結保証】数字しか信じない帳簿令嬢は、無愛想な護衛騎士の9999だけ読み解けない  作者: Lihito
【第1章:辺境開拓編】

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12話:三枚の紙

トビアスが手紙を持って客室に引っ込んでから、半日が経った。


セバスによると、昼食は手をつけなかったらしい。


急かすつもりはない。ただ、あの紋章を見たトビアスの顔は覚えている。


夕方、窓の外にトビアスの姿が見えた。


広場の端に立っている。隣にグレンがいた。


二人が何か話している。距離は遠くて声は聞こえない。トビアスが長く喋って、グレンが短く返す。またトビアスが喋る。グレンが一言。トビアスが黙った。


しばらくそうして立っていた。


やがてトビアスが館に向かって歩き出した。その足取りに、朝の強張りはなかった。


***


執務室の扉を叩く音。


「どうぞ」


トビアスが入ってきた。目の下に隈がある。でも目そのものは澄んでいた。


手に、手紙を持っている。


「アイリス様。お話があります」


「座って」


トビアスが椅子に座った。手紙を膝の上に置いて、しばらく黙っていた。


「殿下の視察の日、覚えていらっしゃいますか。馬車のそばで殿下と話していた時のこと」


覚えている。窓から見た。トビアスに確認して、歯切れが悪かった。


「あの時、正直にお答えできませんでした」


「ええ」


「殿下から言われたんです。事業の管理権を移せ、と。軟膏の製造と販路を、殿下の指定する代理人に引き渡せ、と」


「それがこの手紙?」


「はい。あの時は口頭でした。今回は書面で、期限つきで」


手紙を差し出した。受け取って開いた。文面は短い。管理権移転の命令。期限は今月末。


「それだけではありません」


トビアスの声が低くなった。


「殿下は母の治療費を出してくださっています。リーゼの——弟子のギルドでの立場も、殿下の口利きで維持されています。手紙には書かれていませんが、あの日、殿下は笑いながら仰いました。『お前が困ることは何もない。従えば、今まで通りだ』と」


従えば今まで通り。従わなければ——


「薄々気づいていました」


トビアスが膝の上の手を握り締めた。


「この領地に来て、帳簿を見て、住民の顔を見て、港町で取引を見て。全部、殿下が言っていたことと違った。アイリス様が杜撰な商売をしている、品質管理もできていない——全部、嘘だった」


「でも言えなかった」


「母がいます。リーゼがいます。殿下の善意を疑ったら、二人を守る手段がなくなる。だから——信じていたかったんです」


手紙を握る手が震えていた。


「この手紙で、もう信じるふりはできなくなりました」


沈黙が落ちた。


私は引き出しを開けた。


裏返しにしてあった紙の束を取り出す。


「トビアス。これを見て」


「……何ですか」


「先に用意してあったの。あなたがこう言うか分からなかったけど、言った時にすぐ出せるように」


一枚目を広げた。


「まず給与。月額は金貨十五枚から。軟膏事業の利益が安定したら、売上に連動して上げる」


トビアスの目が紙に落ちた。


「十五——今の三倍以上です」


「あなたの腕に対して、今までが安すぎたのよ。次」


二枚目。


「お母様の治療費。軟膏の月産三十壺で、売上は最低でも金貨二百四十枚。原価と人件費を引いた純利益から、月に金貨二十枚を治療費として確保する。内訳はここに。お母様をこちらに呼ぶか王都に残すかは、治療の状況次第で判断して」


トビアスが紙を受け取った。数字を目で追っている。途中で、紙を持つ指先が震えた。


三枚目。


「リーゼ。王都のギルドは殿下の息がかかってるから、あのままでは正式な弟子入りも推薦も握り潰される。港町に薬師ギルドの支部がある。管轄が違うから、王都の影響は及ばない。アーレン領の領主名義で推薦状を出す」


「領主名義の推薦状を——」


「港町との関係を作っておくのは、こっちにも利がある。あなたのためだけじゃないわ」


三枚の紙がテーブルに並んだ。給与の計算書。治療費の確保計画。リーゼの受け入れ経路。全部に数字の裏付けがある。


トビアスは紙を見ていた。口を引き結んで、目を離さない。


「殿下は、口約束でした」


声が震えている。


「弟子の面倒を見てやる、母の治療費も心配するな、と。でも数字は一度も出なかった。いくら出すのか。いつまでに。何も」


紙を握り締めた。


「あなたは——いつから、これを」


「あなたが来た日から、考えてはいたわ。数字を組み始めたのは、殿下の視察の後」


あの夜から。蝋燭を二本目に替えて、通常の帳簿を閉じてから、別の紙に向かっていた。倒れた夜も。


トビアスの肩が小さく震えた。顔を上げない。しばらく待った。


やがて、トビアスが立ち上がった。


「アイリス様」


顔を上げた時、目が赤かった。


「ここで働かせてください」


「条件に不満があれば言って。交渉は受けるわ」


「ありません。全て——ありがたく、お受けします」


「じゃあ決まりね。明日から正式に、アーレン領の加工技術責任者」


トビアスが深く頭を下げた。長い間。顔を上げて、扉に向かった。


足を止めて、振り返った。


「……いい仕事を、します」


出ていった。


***


グレンが壁際にいる。


「グレン」


「はい」


「あの人と何を話したの」


少し間があった。


「聞かれたので、答えました」


「何を聞かれたの」


「なぜ、ここにいるのかと」


「で、何て答えたの」


「……忘れました」


嘘つき。追及はしなかった。


「もう一つ聞いていい」


「はい」


「あの人、逃げると思った?」


「いいえ」


即答だった。


「逃げる人間は、あんな顔をしません」


それだけ言って、グレンも出ていった。


一人になった執務室で、グレンの背中が消えた扉を見ていた。


なぜ、ここにいるのか。


聞かれて何と答えたのか、この人は「忘れた」と言う。でもトビアスはあの会話の後、足取りが変わった。


いつか聞ける日が来るかもしれない。


***


翌日。


トビアスが作業場に戻っていた。いつもの手つきで軟膏を作っている。顔が違った。昨日までの陰が拜けている。


鑑定した。


【トビアス・ヴェーバー】

現在価値:1,650

潜在価値:1,800


1,650。来た時は350だった。鎖が外れたら、ここまで上がる。


「アイリス様。一つ、お伝えしておきたいことが」


「何?」


「昨日、殿下宛に返信を出しました。管理権の移転には応じられない、と」


「そう。良かったわ」


トビアスが作業に戻ろうとして、足を止めた。


「アイリス様」


「何?」


何か言おうとして、口を閉じた。それから少し笑って、


「……いえ、何でもありません。軟膏、仕上げてきます」


「あ、トビアス。一つ聞いていい?」


扉の前で振り返った。


「昨日、グレンと何を話してたの?」


トビアスが少し考えて、答えた。


「なぜここにいるのかと聞いたら、一言だけ返ってきました。『あの人は数字で嘘をつかない』と」


……あの無口が、そんなことを。


「それだけでした。でも、十分でした」


トビアスが作業台に向かった。その背中が、少しだけ赤かった。気のせいかもしれない。


窓の外に目をやった。穏やかな領地。広場を歩くグレン。帳簿を抱えたセバス。


目の前の問題は片付いたけど、レオナルドがこのまま黙っているとは思えなかった。


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