12話:三枚の紙
トビアスが手紙を持って客室に引っ込んでから、半日が経った。
セバスによると、昼食は手をつけなかったらしい。
急かすつもりはない。ただ、あの紋章を見たトビアスの顔は覚えている。
夕方、窓の外にトビアスの姿が見えた。
広場の端に立っている。隣にグレンがいた。
二人が何か話している。距離は遠くて声は聞こえない。トビアスが長く喋って、グレンが短く返す。またトビアスが喋る。グレンが一言。トビアスが黙った。
しばらくそうして立っていた。
やがてトビアスが館に向かって歩き出した。その足取りに、朝の強張りはなかった。
***
執務室の扉を叩く音。
「どうぞ」
トビアスが入ってきた。目の下に隈がある。でも目そのものは澄んでいた。
手に、手紙を持っている。
「アイリス様。お話があります」
「座って」
トビアスが椅子に座った。手紙を膝の上に置いて、しばらく黙っていた。
「殿下の視察の日、覚えていらっしゃいますか。馬車のそばで殿下と話していた時のこと」
覚えている。窓から見た。トビアスに確認して、歯切れが悪かった。
「あの時、正直にお答えできませんでした」
「ええ」
「殿下から言われたんです。事業の管理権を移せ、と。軟膏の製造と販路を、殿下の指定する代理人に引き渡せ、と」
「それがこの手紙?」
「はい。あの時は口頭でした。今回は書面で、期限つきで」
手紙を差し出した。受け取って開いた。文面は短い。管理権移転の命令。期限は今月末。
「それだけではありません」
トビアスの声が低くなった。
「殿下は母の治療費を出してくださっています。リーゼの——弟子のギルドでの立場も、殿下の口利きで維持されています。手紙には書かれていませんが、あの日、殿下は笑いながら仰いました。『お前が困ることは何もない。従えば、今まで通りだ』と」
従えば今まで通り。従わなければ——
「薄々気づいていました」
トビアスが膝の上の手を握り締めた。
「この領地に来て、帳簿を見て、住民の顔を見て、港町で取引を見て。全部、殿下が言っていたことと違った。アイリス様が杜撰な商売をしている、品質管理もできていない——全部、嘘だった」
「でも言えなかった」
「母がいます。リーゼがいます。殿下の善意を疑ったら、二人を守る手段がなくなる。だから——信じていたかったんです」
手紙を握る手が震えていた。
「この手紙で、もう信じるふりはできなくなりました」
沈黙が落ちた。
私は引き出しを開けた。
裏返しにしてあった紙の束を取り出す。
「トビアス。これを見て」
「……何ですか」
「先に用意してあったの。あなたがこう言うか分からなかったけど、言った時にすぐ出せるように」
一枚目を広げた。
「まず給与。月額は金貨十五枚から。軟膏事業の利益が安定したら、売上に連動して上げる」
トビアスの目が紙に落ちた。
「十五——今の三倍以上です」
「あなたの腕に対して、今までが安すぎたのよ。次」
二枚目。
「お母様の治療費。軟膏の月産三十壺で、売上は最低でも金貨二百四十枚。原価と人件費を引いた純利益から、月に金貨二十枚を治療費として確保する。内訳はここに。お母様をこちらに呼ぶか王都に残すかは、治療の状況次第で判断して」
トビアスが紙を受け取った。数字を目で追っている。途中で、紙を持つ指先が震えた。
三枚目。
「リーゼ。王都のギルドは殿下の息がかかってるから、あのままでは正式な弟子入りも推薦も握り潰される。港町に薬師ギルドの支部がある。管轄が違うから、王都の影響は及ばない。アーレン領の領主名義で推薦状を出す」
「領主名義の推薦状を——」
「港町との関係を作っておくのは、こっちにも利がある。あなたのためだけじゃないわ」
三枚の紙がテーブルに並んだ。給与の計算書。治療費の確保計画。リーゼの受け入れ経路。全部に数字の裏付けがある。
トビアスは紙を見ていた。口を引き結んで、目を離さない。
「殿下は、口約束でした」
声が震えている。
「弟子の面倒を見てやる、母の治療費も心配するな、と。でも数字は一度も出なかった。いくら出すのか。いつまでに。何も」
紙を握り締めた。
「あなたは——いつから、これを」
「あなたが来た日から、考えてはいたわ。数字を組み始めたのは、殿下の視察の後」
あの夜から。蝋燭を二本目に替えて、通常の帳簿を閉じてから、別の紙に向かっていた。倒れた夜も。
トビアスの肩が小さく震えた。顔を上げない。しばらく待った。
やがて、トビアスが立ち上がった。
「アイリス様」
顔を上げた時、目が赤かった。
「ここで働かせてください」
「条件に不満があれば言って。交渉は受けるわ」
「ありません。全て——ありがたく、お受けします」
「じゃあ決まりね。明日から正式に、アーレン領の加工技術責任者」
トビアスが深く頭を下げた。長い間。顔を上げて、扉に向かった。
足を止めて、振り返った。
「……いい仕事を、します」
出ていった。
***
グレンが壁際にいる。
「グレン」
「はい」
「あの人と何を話したの」
少し間があった。
「聞かれたので、答えました」
「何を聞かれたの」
「なぜ、ここにいるのかと」
「で、何て答えたの」
「……忘れました」
嘘つき。追及はしなかった。
「もう一つ聞いていい」
「はい」
「あの人、逃げると思った?」
「いいえ」
即答だった。
「逃げる人間は、あんな顔をしません」
それだけ言って、グレンも出ていった。
一人になった執務室で、グレンの背中が消えた扉を見ていた。
なぜ、ここにいるのか。
聞かれて何と答えたのか、この人は「忘れた」と言う。でもトビアスはあの会話の後、足取りが変わった。
いつか聞ける日が来るかもしれない。
***
翌日。
トビアスが作業場に戻っていた。いつもの手つきで軟膏を作っている。顔が違った。昨日までの陰が拜けている。
鑑定した。
【トビアス・ヴェーバー】
現在価値:1,650
潜在価値:1,800
1,650。来た時は350だった。鎖が外れたら、ここまで上がる。
「アイリス様。一つ、お伝えしておきたいことが」
「何?」
「昨日、殿下宛に返信を出しました。管理権の移転には応じられない、と」
「そう。良かったわ」
トビアスが作業に戻ろうとして、足を止めた。
「アイリス様」
「何?」
何か言おうとして、口を閉じた。それから少し笑って、
「……いえ、何でもありません。軟膏、仕上げてきます」
「あ、トビアス。一つ聞いていい?」
扉の前で振り返った。
「昨日、グレンと何を話してたの?」
トビアスが少し考えて、答えた。
「なぜここにいるのかと聞いたら、一言だけ返ってきました。『あの人は数字で嘘をつかない』と」
……あの無口が、そんなことを。
「それだけでした。でも、十分でした」
トビアスが作業台に向かった。その背中が、少しだけ赤かった。気のせいかもしれない。
窓の外に目をやった。穏やかな領地。広場を歩くグレン。帳簿を抱えたセバス。
目の前の問題は片付いたけど、レオナルドがこのまま黙っているとは思えなかった。
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