インフレ率と副業
土曜日の午後。
給料日明けで少し気分が浮かれていた僕は、街のショッピングモールに来ていた。
ずっと欲しかったゲームソフトを手に取り、レジへ向かおうとした――そのとき。
「……林くん?」
振り返ると、そこにいたのは梶原主任だった。
いつものスーツ姿とは違う、落ち着いた色のワンピースにカーディガン。
髪もゆるくまとめられていて、職場とはまるで別人のように柔らかな印象だ。
「か、梶原主任!? えっと……買い物ですか?」
「ええ。あなたも?」
「は、はい……」
(やばい……私服姿、めっちゃ綺麗だ……!)
主任は少し考えたあと、にっこり笑った。
「ちょうどいいわ。昨日の続き、話しておきましょうか。ここだと人も多いし……カフェでもどう?」
――主任と二人でカフェ!?これってほとんどデートなのでは??
◆
温かいコーヒーを前に、主任は真剣な表情に戻った。
「林くん、昨日は年金の話をしたわよね。今日は“インフレ”について知ってほしいの」
「インフレ……物価が上がることですよね。でも、給料も上がれば別に大丈夫なんじゃ?」
「日銀は“物価を年2%ずつ上げる”ことを目標にしているの。だからもし本当にその通りに進んだら、私たちが退職する40年後にはどうなると思う?」
主任はナプキンに数字を書き始めた。
「たとえば今、100円で買えるものがあるとするわね。インフレ率2%で40年後には……100円 × 1.02の40乗で、大体220円になるの」
「えっ……倍以上じゃないですか!」
「そう。つまり、今の100円の価値は、40年後だと45円程度、半分以下に目減りするってこと。“老後3000万円必要”って言われてるけど、今、仮に3000万円の貯金を持っていたとしても、40年後には、1360万円程度の価値しか残らない計算になるのよ」
「……そ、そんな……。コツコツ貯金しても、半分以下の価値になるなんて」
「そう。だから、貯金だけじゃ未来を守れないの。インフレは静かに、でも確実にお金の価値を削っていくの」
僕は息をのんだ。
主任の柔らかな私服姿にドキドキしていたはずが、今は心臓の鼓動が別の意味で高鳴っている。
「でも主任、結局、収入自体を増やすのが一番なんじゃないですか?副業とか」
僕はカップを持つ手を少し震わせながら切り出した。
主任は小さく笑って首を振る。
「気持ちは分かるけど、私たち公務員は法律で“営利企業への従事”や“事業の兼業”は禁止されているからね」
「じゃあ、全くできないんですか?」
「そんなこともないのよ。株式や投資信託、それから小規模な不動産の賃貸は“資産運用”だから原則自由。副業には当たらないと整理されてるの」
「へぇ……セーフなんですね」
「でも規模によるのよ。たとえば不動産なら、独立した家を5棟以上とか、マンションの部屋を10室以上持ってると“事業的規模”って見なされて副業扱いになる。そこまでいくと許可が必要だし、実質NGね」
「10室って、もう普通の大家さんですね……」
「そう。あと株も同じ。長期投資で持ってる分には問題ないけど、デイトレみたいに毎日売買してたら“事業性がある”って判断されることもあるの。グレーゾーンだけどね」
「なるほど……思ったより細かいですね」
「そういうわけで、私たちに現実的なのは“投資”。株式や投信、不動産。つまり資産運用に力を入れるしかないの」
主任はカップに口をつけ、ひと息ついた。
僕はその横顔を盗み見ながら、心の中で何度も反芻していた。
――貯金だけじゃ足りない。副業もできない。なら、自分の未来を守るには“投資”しかないのか。




