第七九六話 踊り場(二八)
一大事となってしまった。しかも、その一大事の誘因となったのは、紛れもなく自分、高遠祥子なのだ。仲間内での立つ瀬どころではなくなった。
あれよあれよという間に孝子はタクシーを呼んで帰ってしまって。残された面々は気息奄々となってしまって。
いや。違った。一人、那美だけは、へらへら笑っている。また怒った、と。大した玉だった。
一方、彼女の万分の一も肝の据わっていない祥子と清香は、ただ顔を見合わせるばかりである。しばらくして、ようやくに祥子が思い付いたのは、尋道への詳細の報告になる。ついでに善後策も授かりたかった。
ところが、だ。氏いわく、報告は、別に、いらぬ、と。当方としては、前社長より下された命令を滞りなく実施するのみであるからして。どうしても伝えたい事物があるなら、明日にせよ。今日は休日だ、だそうな。
うはははは、と大口を開けて那美が笑う。
「さすが、郷本さん! 冷たい!」
「もう。孝子ちゃんといい、なんなの」
清香は憤まんやるかたない様子である。さもありなん。
いずれにせよ、そばどころではなくなった。雰囲気も、食気も。
「何を言ってるの。おそば、食べに行くよー。ケイちゃんの分の天ぷらは、私がもらうー」
いや。違った。一人、那美だけは、再び、である。本当に、大した玉だった。
明けた月曜日、祥子は事の顛末を報告するため、朝一でSO101に向かう。社用車は使わず、公共交通機関を乗り継いでいく。車を運転してよい精神状態ではなかった。
インキュベーションオフィスに到着した。時刻は午前七時三五分。SO101に入室するも無人だ。早過ぎた。
待つことしばし、午前八時五分に顔を見せたのは、なんと斎藤みさとであった。
「あ。斎藤さん」
間の悪い。あるいは、尋道に呼ばれたのか。
「お。高遠さん。やあ、大事だってね」
尋道の手配だったらしい。
「はい。斎藤さんも、昨日の件で?」
「うん。会社都合だからね。補償が必要でしょう。どれくらい、いる? って聞かれて」
尋道は、まさしく滞りなく孝子の命令を実施しつつあるようだ。
「大丈夫? 顔色、悪いよ」
「私のせいで、とんでもないことに」
「うーん。郷さん、本気かな。本気なんだろうな。あ。よかったら」
みさとは提げていた袋をワークデスクの上に置いた。菓子パンやら缶コーヒーやらだが、
「いえ」
今は、喉を通らない。
待ち人が現れたのは午前八時半だ。
「おや。お二人とも、お早いお着きで。もしかして、ずっと立ちっぱなしですか?」
悠然と入室してきた尋道は、立ち尽くしていた二人を尻目に自席へ着いた。
「ああ。ちょっと、ぼんやり。郷さん。結局、どうするんです?」
「どうするも、何も。僕は言われたことをやるだけです」
「高遠さんが、真っ青になってるんですけど」
「高遠さん。気にしなくていいですよ。どうせ、那美さん、あの人に、黙れ、と言われたのに黙らなかった、とか、そんな感じでしょう? で、サーヤさんは、そんな那美さんをかばって、と。もう。あの人に逆らうな、って言ったのに。これ、いただいても?」
尋道はワークデスクの上に放置されていた袋を指した。
「あ。どうぞ、どうぞ」
「では」
手を伸ばして、尋道は缶コーヒーを袋から抜き出した。ふたを開けて、一口。
「姉が、那美さんと仲よしでしてね。その姉情報によれば、あの人、すかんぴんなんですよ。お小遣い制でなくて入り用の都度の申告制のせいで」
「ですね。美幸さまは、そうなさってますわ」
「なので、お金で釣れば、おとなしくしてくれると思ったのですが。ままならない。ところで、あなたたち。いいかげん、座ってはいかがですか」
言われて、祥子はみさとと並び、尋道の正面に着席した。
「斎藤さん。どうなりそうです?」
どう、とは、那美と清香に対する補償の話だった。
「そうですね。退職勧奨、ってことで、補償は、今月の残りと、明けての、一月、二月、三月、約三カ月分ぐらいですかね」
うなずいて、尋道は言った。わかった、と。そのように対応する、と。終わった、ようだった。




