第七九四話 踊り場(二六)
運転を始めると、カーナビが何やらしゃべりだした。次の目的地である食事処への案内だった。設定されているのは、隣県、千葉のそば屋、という。
「随分、遠くのお店にしましたね」
六〇キロ程度、と聞いた道のりについて、孝子は感想を述べた。
「ほとんど高速だから一時間ぐらいで着くはずよ。学生時代の知り合いに教えてもらったの。車のお試しにも、ちょうどいいぐらい、と思って決めたんだけど」
「これぞ老練の配慮」
「何か言いましたか」
「って、ナミスケが言ってました」
「言ってないよ!」
一番の細身のくせして助手席に陣取った那美が叫ぶ。
「そういえば、那美ちゃん。引っ越しは済んだの?」
「新家」の建て替えに伴い、一時、神宮寺成美の住まいに仮寓する予定となっていた那美たちだった。孝子が舞浜にいた一一月半ばまでに目立った動きはなかったが、その後、予定は滞りなく実行されたのか、という問いになる。
「うん。一二月に入って、すぐ」
「どう、あっちは?」
「お母さんが小さくなってる」
神宮寺家の長老、成美の前では当代、美幸も形無しらしい。
「あとは、ね。お迎えがサーヤちゃんになった」
なった、とは、なんだ。前がいたのか。
「須之内さん。まあ、須之内さんは、途中だったから乗せてくれてただけだけど。時間が合わなくて、帰りはなしだったしね。そこへいくと、サーヤちゃんは、行きも帰りも送ってくれて、楽」
子のなき故に年少者との交流を希求しがちな清香らしい。ばかな、と思っても、とやかくは言うまい。
「静ちゃんは、どう? やっぱりお昼に帰ってくるの?」
「帰ってくるよ」
大勢の使う浴場で汗を流すことを好まず、午前の自主トレーニングを済ませると、いったん、舞姫館を出て、帰宅。諸事を済ませた後、午後の舞姫の練習に参加するため、再び舞姫館に出向くのが、これまでの静流だ。ただし、それは、自宅のある鶴ヶ丘と舞姫館のある亀ヶ淵が、隣り合う地域であったからこそ可能な行為といえた。静の仮寓は鶴ヶ丘と比較して、距離も時間も三倍以上、隔たった場所にある。よくやる、以外の感想は出てこない。
「神経質なんだよ。静お姉ちゃんは」
「先輩」
述懐は、祥子だった。
「高校の時も遠征なんかでは、お風呂、最後に一人で、でしたね」
「そんなの、上には何も言われなかったの?」
「長沢先生が、そういう子は、いる、っておっしゃって。一年のころから一人で入っていたそうですよ」
「面倒くさいやつ。私なんか、ぽーん、ってやっちゃうけどね」
「私もー」
「三人で温泉とか行っても、あの子だけ別で入りそう」
「入ると思うー。あ。ケイちゃん。全然、話は変わるんだけど」
自分が目にしたわけではなく、尋道に聞いた話、と那美は前置きした。「新家」の解体が始まった、という。
「私が戻ったころには終わってるかな」
「終わってなくても、ケイちゃんの部屋、外の音、聞こえないし、大丈夫でしょ」
「そうだった」
趣味の音楽に没頭するため、防音にした部屋が、意外なところで役立ちそうだった。
「孝子ちゃんの部屋は、何か特別な?」
「防音室なんです。静かでいいですよ。犬もいますし」
「ケイちゃん、音楽やってる」
「あ。そうだ。依田さんも言ってたっけ。すごい、見事な、って。私も聴いてみたいな」
くそ、愚妹が。犬の存在を語り、そのための防音室、と誘導しようとしたのに。孝子の音楽は趣味であり、興味を持たれること自体が迷惑でしかないのだ。
「お姉さん。漫画の件ですけど、考えていただけましたか?」
祥子が唐突に言いだした。まだ何も聞いていないのに何を考えろというのか。こちらも、愚かな、と思いかけて、はたと孝子は気付いた。話題を転換するための方便だ。祥子は鋭敏に孝子の怒気を感じ取った、とみえた。
「どんな話だったっけ。電話、聞き流してて、大体、忘れちゃった」
方便には方便で、こちらも受けていない電話をでっち上げる。せっかくの心遣いだった。付き合うのが礼儀だろう。




