第七七八話 踊り場(一〇)
まるで歯が立たない、といった表現は、適当とはいえまい。競争をしていたのではないのだから。ただ、祥子の実感は正しく、これ、になる。浄がこなす練習の強度に、付いていけなかったのだ。得意のはずだったランですら、全く。
というわけで、途中、離脱した祥子は、野球場の医務室でひっくり返っている。男所帯の野球部のこと、浄らが退室していった後は一人となったのを幸いに、寝っ転がって、ひたすら打ちひしがれている。体を冷やさぬように、落ち着いたら着替えを、と言い置かれた注意も無視している。
情けない。なんたる失態か、と思う。幼なじみの、四歳年下の少年、と浄を甘く見ていたのだ。ばかな、である。天下の重工野球部が、練習生として受け入れた逸材を、なんだと思っている。
「やっほーい」
突如、医務室の扉が押し開かれた。那美の声だった。起き上がって、見ると、清香もいた。
「あ。浄君。伝えなくていい、って言ったのに」
「どうせばれる、って、伊澤弟、郷本さんに連絡してきたんだよ」
「まさか、郷本さんも!?」
「グラウンドに行ったー。で、高遠先輩は着替えたの? 多分、へこんで、そのまま、うずくまってる、って郷本さんは言ってたけど」
当たりだ。何も、していない。
「脱げー」
「いえ。自分でできます」
「うるさい。脱げー」
半ば強制的に着替えさせられたものの、やはり、乾燥した衣服の感触は快い。祥子は那美と清香に謝した。
さて。気が重いが行かなければならない。グラウンドに向かうと、尋道は一塁側のダッグアウトにいて、照明の下、活動する野球部員たちを眺めていた。
「やあ。大事なかったですか」
「はい」
叱声を覚悟して、首をすくめかけていたので、意外、ではあった。
「あ。高遠先輩、めっちゃ叱られると思ってたのに」
意中が那美によって代弁された。
「何をしでかしたか、わかっているようですし。追い打ちは無用かと。それは、しれっとしてたら、締め上げましたよ」
「申し訳ありませんでした」
「次に生かせば、いいだけです」
「祥子さん!」
復帰に気付いた浄がすっ飛んできた。
「ああ。浄君。ごめんなさい。足を引っ張っちゃって」
「いえ。俺こそ、もっと加減したらよかった」
「伊澤君」
ダッグアウトのベンチに座し、視線も動かさないまま、尋道だ。
「何が、加減、ですか。蛮勇ではありましたが、彼女なりに懸命に挑んだ結果を、なんだと思っている」
固形化した空気が流動しだしたのは、外部からの作用によった。
「お。ここにいたか」
野球部部長の中田だった。作業服にダウンコートという出で立ちは、おそらく現場に出た、その帰りなのだろう。
「高遠。ひっくり返った、って聞いたけど、平気か?」
以前、重工に務めていた祥子が主に所属していた部署は、船舶・海洋事業本部だ。同部のナンバーツーに当たる中田は、かつての同胞に何かと気さくである。
「すみません。ご心配をお掛けして」
「いや。大事なかったら、いい」
ここで、中田、ダッグアウト内の、重さ、に気付いたらしい。
「何か、あったか?」
「伊澤弟が郷本さんに怒られた」
高鷲重工の重役に対して、物怖じせずに向かっていったのは那美である。
「ほほう」
ところで、この娘は誰か、と中田が思った瞬間だったのだろう。娘の隣にいる婦人が目に入ったののだろう。
「黒須さんの奥さんじゃないですか!」
「ご無沙汰してます」
「カラーズの母です。サーヤさん、有閑マダムだそうなので、パートに来てもらっているんですよ」
「ははあ。それは、それは。おい、竹脇! 竹脇はどうした? 乃木もか!」
中田がグラウンドに向かって怒鳴った。後で浄に確認すると、それぞれ、副部長と監督、という。
「すみません。ご挨拶を、と思ったんですが、うちの者たち、今日に限って」
「いいえ。選手権大会、でしたっけ。お忙しいのでしょう? お構いなく」
「いや、まあ、だからこそ、なんでいないんだ、って話にもなってくるわけでして。ああ。郷本君。こちらの娘さんは?」
「かの神宮寺孝子氏の妹さんです」
中田がわずかに天を仰いだ。社内きっての人物、その令夫人に続いて、その秘蔵っ子の妹もか、との驚嘆に違いなかった。
「あ。おじちゃん、嫌そう」
「いや、そんなことは、全然、ないんだよ。そうそう。伊澤が郷本君に怒られた、っていうのは?」
「伊澤弟が、高遠先輩に、加減できなくてすみません、みたいに言ったら、何が、加減、だ、ばか、って。お前は一生懸命にやった人をなめてるのか、って」
「それは、いかんな。ただ、今、伊澤にやらせているメニューは高遠でなくとも付いていくのは難しいだろうし」
中田の腕組みも、一瞬のことであった。
「よし。こうしよう。勘所というか、こつを、俺が教えよう。高遠は、パートナー的な動きをしてくれていたんだろうが、コーチ、トレーナー的な動きができるようにな。郷本君。このあたりで、どうだろう?」
祥子は見たのだ。中田の案を聞く間の、尋道の表情を。わずかに片頬笑んだ、そのさまを。どうやら全ては彼の手の内にあったらしかった。本当に油断も隙もない上司であった。




