第七七五話 踊り場(七)
午前一〇時の登場は、業務開始早々の繁忙を避けたため、とみた。舞姫館に祥子を訪ねてきた基佳だ。おととい以来の再会である。スエットの上下とは、仕事の合間で来たわけではないらしいが。
「こんにちはー! 高遠さん! 私、教習所の予約、入れてきたよ!」
のしのし接近しつつの大声は、尋道から要望のあった運転免許の限定解除に取り掛かった、という宣言だった。
「あ。早速ですね」
立ち上がって基佳を迎えた祥子は、その足でコーヒーメーカーの前に立つ。
「小早川さん。コーヒー、いかがですか?」
「いただきます」
カラーズ島に着いた基佳が応じる。
「今日は、お休みですか?」
「有給消化。入社以来、一回も取ってなかったんだよね。この後は週一で出て、年末で退社」
「え!? 小早川さん、舞浜ケーブルテレビ、辞めちゃうんですか!?」
二人の会話が聞こえたのだ。舞姫島の伊澤まどかが振り返り、直後に、
「伊澤。勤務中だ」
基佳にとっては大学の先輩に当たる中村憲彦舞姫ヘッドコーチの叱声が場を圧した。
「すみません。私たちったら、大きな声で」
「いや。今のは、こちらの落ち度。社員教育の不徹底。どうも落ち着きがなくてね」
「あ。そうそう。中村先輩。実は私、カラーズさんに転職するんです」
話題の転換と、中村への説明と、まどかへの返答が、同時に成された。
「ほう。では、スポーツキャスターは、辞めるのかね?」
「いえ。現場に行きたかったんですよ。実際、こちらにも、かなりのご無沙汰でしたし」
「そう、だっけか。君の顔、よく見るから、そんな感じは全くしないが」
「バラエティーとか、でしょうか。でも、私がやりたかったのは、そういうことではなくて。カラーズさん、どこにでも行っていいぞ、って言ってくれて。なので、これからは舞姫さんにも、がんがん突撃させていただきます」
「それは、お手柔らかに。しかし、舞浜ケーブルテレビさんも、よく君を手放したな。人気者じゃないか。痛手だろうに」
「存分に、虎の威を借りました。最初に、カラーズに行きます、って言って。おかげで、一切、慰留されませんでした」
基佳が言う虎は、舞浜ケーブルテレビが属する重工グループの本丸、高鷲重工業株式会社にあって大立者とされる黒須貴一、その人だ。彼はカラーズの、というか孝子の、強力な庇護者として認知されていた。ちなみに庇護される側は、くだんの虎を大変に嫌っているのだが、それはまた別の項とする。
「なかなかやり手だな。君も」
「恐れ入ります」
同窓同士の会話は、ここで区切りとなった。祥子は運ぶのを控えていたコーヒーを基佳に供した。
「ありがとう。あと、ね。高遠さん」
「はい」
席に着いた祥子は基佳と正対した。
「郷本君の名前も効いた」
「郷本さんの?」
「うちの上のほうに、あの人を知ってる人がいてね。ゴルフ場つながり。カラーズさんといったら、黒須さんのお気に入りの子がいて、おまけに彼もいるんだよなあ、なんて。重工の大物とかとも通じてて、隠然たる勢力を持っているっぽい、って郷本君たら思われてる。触らぬ神にたたりなし。遺憾ながら君をリリースする、だってさ」
「はあ」
嘆息しかない。そして、しばしの静寂。
「私、ね」
ぽつりと基佳がつぶやいた。
「はい」
「いろいろと許可が取れたら、だけど、カラーズの社史を書こうと思うんだ」
「社史、ですか?」
基佳はうなずいた。カラーズの軌跡を知ることで、後発の自分は先発たちと親和していきたいのだ、という。
「特に、郷本君だよね。神宮寺さんもそうだけど、あの人たちの行動って、表に出てきてないでしょう。そこを知って、ね。カラーズに染まって、ここで重きを置かれる存在になりたいんだよ」
祥子は、はっとしていた。彼女の上司の辣腕に感心している場合ではなかった。比較的、先発の身として、後発に負けるわけにはいかない。自分だってカラーズに染まりたい。ここで重きを置かれるようになりたい。時ならぬ出世争いの勃発だった。




