第七六八話 花咲人(三三)
選択したのは景とはいえ、遠路はるばるやってきて、スピーチもせずに帰る、では不憫だ。孝子は景に席と引き出物を譲り、ついでに、だいぶコースは進んでしまっているし味も薄いが、と断った上で料理も譲り、自分は場外に出た。残りの時間は尋道らに合流してつぶすつもりだった。
「おや。どうされました?」
外には尋道と祥子がいた。
「須之ちゃんに席を譲ったよ。ついてにお料理と引き出物も。見てた? あの子、スピーチしなかったでしょう。せっかく来たんだし、式の雰囲気を味わわせてあげようと思って」
「それは、それは」
「さっちゃんもよくやったね」
景の那古野行を、よくサポートしたであろう祥子をたたえる。
「ありがとうございます。あ」
祥子が声をのんだ。その視線は孝子の背後に向けられていた。
「あら。依田さま」
振り返ると、新郎側主賓の風格、ディレクターズスーツも決まった依田逸郎だ。
「おひねりでも?」
にやりと依田は笑う。
「受けてくれる?」
「いいえ」
「でしょう。やあ。郷本君も一別以来。こちらは?」
「部下の高遠といいます」
「依田さま。今、名刺って、お持ちですか?」
「あるよ」
「さっちゃん。またとない機会だし、ナジコの社長さんの名刺、もらっちゃいなよ」
驚倒しつつも依田との名刺交換を終えた祥子が孝子に寄ってきた。
「お姉さん、さすがです。まさか私がナジコの社長さんのお名刺をいただけるなんて」
「私じゃない。長沢先生がいいのを引っ掛けたおかげ。ナジコの社長さんを主賓で招ける男なんてね。ところで、依田さま。その主賓さんが、どうされました?」
「うん」
依田は大仰にうなずいてみせた。
「さっきの、あなたのオンステージに、大変、感銘を受けてね。どうだろう。我が社とのコラボレーションみたいなものをやってみませんか」
「ほう。となると、CMあたりになりますか」
カラーズの詐欺師が動くか。ならば黙って見守るとする。
「うん。この人の『花咲人』と、うちの車が合うんじゃないか、と思って」
「なるほど。ですが、実現に当たっては、一つ、クリアしなければならない難事がございまして」
「それは?」
「重工の黒須さんが娘とも思うきっぷです。他人の話なんか聞きやしません。依田さんの直轄プロジェクトとして思うさまにやらせていただくことが、承る絶対の条件になろうかと」
「もちろん。そうでなければ、この人の魅力を引き出せないだろうしね」
依田の快諾を聞いて孝子は噴き出していた。尋道が、しくじった、と思ったのだ。
「どうしたの?」
「いえ。郷本が失敗したと思って。断ろうとしたよね?」
「いいえ。圧倒的に有利な契約が結べるのでしたら、あなたの出馬もあり、と思っていましたが。ああ。お二人とも。仕事です。ナジコさんとのコラボレーションで、何か、やってください」
尋道の指図があったのだろう。祥子が剣崎と関を引き連れてきたのだが、何か、とは、何か。あまりにも曖昧な言に二人は言葉を失っている。
「テーマは、この人と『花咲人』とナジコさんの車です。クリエーターなら、そこから話を膨らませてください。で、ですね。芸名を考えました」
「はあ?」
尋道氏、積極的である。ナジコとの直接取引に気合いが入っているようだ。
「一応、重工系ですしね。あなたは。世を忍ぶ仮の姿が必要でしょう」
「どんな芸名」
「謎のモデル、下村毛糸。どうですか?」
「けいと」のアクセントは明らかに、編み物に使うあれのそれ、であった。
「何が、毛糸だ。ばか」
言っている最中に孝子は了解していた。そのまま大笑へとつながる。「下」は英単語の「under」と解し、「村」は音読みして「そん」、「毛糸」は、そのまま「ケイト」とすれば、孝子が敬慕する米国人歌手、ケイト・アンダーソンの完成だ。なかなかこじゃれたもじりではないか。さすがにとっさではあるまい。いざというときのために温めていた名であろう。面白い。謎のモデル、下村毛糸。演じてみてやっても、よい。




