第七六一話 花咲人(二六)
焼き菓子の到着を待つ間に孝子が仕掛けたことは雑談だ。このホテルに宿泊していないらしいが、どこに潜り込んでいる、と尋道に問う。
「北口のビジネスホテルです。こちら、安い部屋でも四万円ぐらいしますのでね。裏方には分不相応ですよ。いいお部屋だったでしょう?」
「まあね。お車代は出てないの?」
「正式な参列者でもないのに受け取れませんよ。遠慮しました」
「出そうか?」
「好意です。笑納してください」
長沢のためには動いていない。孝子のため、というわけか。
「ありがとう。君の貢献は忘れない」
「剣崎さんと関さんも追加でお忘れなきよう、お願いします」
孝子の余興に付き合う関はわかるが、剣崎は、どうしたのだ。
「明日、ピアノを弾きにいらっしゃいます。式の前にリハーサルをやりましょう。ピアノの伴奏で歌ったことはありませんよね。一回ぐらいはやっておいたほうがいい」
「あの人、どの面下げて来るの? かわいい彼女の敵だよ、私は」
なんともはやの言い草であっても尋道に動ずる気配はない。
「大丈夫でした。あの方も僕を買ってくださっていますので。正村さんの見解には、同意しかねる、と。もっとも、面と向かっての注意は、これまた、致しかねる、ようですが」
「それでいいよ。剣崎さんに言われたら、あの子、奈落の底まで落ち込んじゃう」
ここで焼き菓子のシェフセレクトが到着した。細長い皿に整列した一〇粒余りを眺め、そのこぢんまりとした様相に、孝子は失笑を禁じ得ない。
「なんですか。はしたない」
「いや。これで、三〇〇〇円だよ? 私たちの入る店じゃないね」
「せっかくなので、つまませていただいても?」
「どうぞ」
一つ、手に取ったクッキーを、尋道は、もそもそ食べる。
「間違いなくおいしいんですけど、どうしても値段が頭をよぎりますね。確かに、僕たちの入る店じゃない」
「ね。で、サプライズっていうのは、剣崎さん?」
他にもある、という。孝子も承知している須之内景の緊急参列に加えて、長沢の教え子たちからのビデオメッセージだ。
「誰?」
「小早川さんと佐伯君、奥村君です」
「その組み合わせだと、一緒に、じゃないよね」
小早川基佳と佐伯達也は、かつての恋人同士であり、二人の離別には後者の友人、天才、奥村紳一郎が大きく関わっていた。異能の人らしく義理人情にもとる奥村の人となりを好まなかった基佳と、その道の練達として彼を遇していた佐伯との差異が、やがて破局につながった形だ。
「ええ。偶然です。そろそろ長沢先生の式だったと思うけど、お祝い、カラーズに混ざらせてくれないかな、と」
「どうしたの?」
「ビデオメッセージを送っていただきましたよ。時に、神宮寺さん。あなた、小早川さんと、もめたじゃないですか」
記憶になかった。
「忘れている程度なら、もう大丈夫、と」
「何を、もめたんだっけ?」
「奥村紳一郎はF.C.さんに不義理を働いたか、否か、というテーマでしたが」
こちらにも、天才の影があったか。
「ああ。契約解除金を残さずにチームを出ていくのは不義理、みたいなことだっけ。で、私は、あの男の存在で、チームも、もろもろ、もうけただろうし、差し引きゼロでしょう、って言ったんだ」
「どうやら心境の変化があったようで」
契機は、北崎春菜の、サッカー界への進出、だった。交際相手、とうわさになっている伊央健翔のコーチとしてベアトリスFCに襲来した彼女は、瞬く間に、その手腕を発揮してみせた。
「伊央さん、大爆発中ですよね」
元々、才能のある者に「至上の天才」が手を加えるのだ。化けたところで、なんの不思議もない。
「バスケットボール界の姿勢にも、大いに驚かされたそうで。各務先生、北崎さんの全日本辞退を、仕方ない、で終わらせてますし」
「天才の正しい取り扱い方だね」
「ええ。本音を言えば、律儀な選手が好きなんだけど、でも、取材者として、それはそれ、と割り切って天才に臨まなくてはならなかった、と。あと」
あと、孝子がひたすら恋しい、そうな。
「人好きのする方ですよね。あなたって。なぜか。不思議と」
「うるせえ」
ともあれ、先方の事情は聞いた。記憶になかった程度である。こちらに障りはない。恋しいのなら、はせ参じればよい。司法修習に臨む孝子のため、壮行会でも開いてみてはどうか。伝言を託して、孝子は、この段を終わりとした。




