第七六〇話 花咲人(二五)
午後五時四五分は、順調に過ぎた、といってよかっただろう。那古野駅のターミナルビルに併設されたホテル、セレステ那古野へのチェックインである。
「三五階だって」
チェックインを済ませた孝子が振り返ると、一歩下がっていた静とみさとは、絢爛たるフロントロビーを物珍しそうにきょろきょろしていた。
「田舎者ども。行くぞ。部屋に着いたら、お茶でも飲もう」
「お姉ちゃん。晩、六時だよ? そんなにゆっくりできないよ?」
静の言った、六時の晩、は遠方からのゲストをもてなすために、と新郎と新婦が主催する食事会を指す。
「立食って聞いてるし、少しぐらい遅れたっていいでしょう」
「でも」
舌打ちが出た。
「座っていただけのてめえらと違って、私は疲れてるんだよ。くそが。行きたきゃ、勝手に行け。あーあ。こんなやつら、無視すりゃよかった」
予定どおりに、一人で、那古野に向かうべきであった、という愚痴になる。
「おら。行けよ。遅れるぞ」
反論は無益、と判断したのだろう。みさとが孝子と静との間に割って入り、そのまま引き下がっていった。こうして孝子は一人、三五階へ向かうこととなったのである。
高級ホテルともなれば違うものだ。部屋にコーヒーメーカーが設置されているとは、孝子、驚いた。早速、一杯を淹れて、楽しむとする。
優雅にふんぞり返っているところにノックの音が聞こえてきた。応対すると、みさとだった。
「早かったね。静ちゃんは?」
「いや。それどころじゃなくて。郷さんがいたんですわ。レストランの前で、私たちを待っててくれて。あいさつだけ、って」
「ほう。で、もう帰ったの?」
「いや。ロビーにラウンジがあったの覚えてる? そこに。行かない?」
連れてくればいいのに、と口をとがらせると、みさとはかぶりを振る。
「宿泊客じゃないから駄目、って。郷さん、来ない」
「え。じゃあ、あの男、どこに泊まってるの」
「聞けない。機嫌悪いんだ」
「なんで」
道すがら、とみさとが言うので、孝子は仕方なく部屋を出た。
原因は、静に対する長沢の苦言だった。試合を休んでまで駆け付けてくれた相手への恐縮から出たものであったろうが、次の瞬間に尋道の突出だ。
「言うに事欠いて、最初に、それ、ですか。来てくれて、ありがとう、じゃないんですか。申し上げておきますが、今回の静さんの参列は、チームの許可もリーグの許可も得た正当なものですよ。因縁を付けられるいわれはありませんね」
因縁、ときたか。
「言う言う」
「言う言う、じゃないよ。やばい、って。大暴れの気配。私、郷さんを抱えて、レストランを出たもん」
「ぶちかまさせればよかったのに」
「なんだかんだで二〇人ぐらいいたんだよ?」
「それがどうした」
長沢の不見識が諸悪の根源なのだ。尋道にとがはない。
みさとをやり込めているうち、ロビーに着いた。ラウンジへ向かい、スタッフに声を掛けると、しけた面の男の元へ案内された。
「お。機嫌悪そう」
コーヒーカップを傾けていた尋道氏が、じろりとやってくる。
「一杯二五〇〇円ですよ。三人分で七五〇〇円。一葉さんだったら、ゲームが一本、買える値段だね、とか言い出すところです」
「あ。頼んでくれたんだ。ありがとう」
「どういたしまして」
座席に座ると間もなく孝子とみさとの前にも二五〇〇円なりのコーヒーが運ばれてきた。
「いただきます。で、暴れたんだって?」
問うた後にコーヒーを口に含む。部屋にあったコーヒーメーカー製のそれとの違いは、正直なところ、わからぬ。
「とやかく言われたら、カラーズが受けて立つ、と静さんに言ってありましたので」
「懲りないよね。長沢先生も。前、松波先生のお宅でご厄介になった時に、私も言ったんだよ。せっかくの家族の団らんで、バスケの話ばっかりしてるから、いいかげんにしなさい、って。どれ。私も釘を刺しておくかな。飲み終わったら、行くよ」
「ええー。やめなよ。カラーズのどぎついツートップが、そろい踏みなんて。郷さんの時点で、長沢さん、相当、不面目な羽目になってるんだよ?」
「自業自得」
言い合っているうち、みさとに着信があった。
「あ。各務先生だ。え? あ、そうですか。わかりました。すぐに戻ります。はい。それではー」
孝子、立ち上がる。みさと、両手で制する。
「落ち着いて。静ちゃんが一人で小さくなってるから、戻ってこい、だって」
「行くよ」
「神宮寺さん。我々は、ここに残って余興とサプライズの打ち合わせをしましょう」
一手に、孝子の好奇心は、即座の方向転換となった。尋道は、サプライズのために、那古野への先乗りを敢行していたはずだ。その内容は、実に興味深い。
「え。あ、それ、私も知りたい」
「せっかく、どぎついツートップが自重してやる、ってんだ。失せろ」
しっしっと振った、その手で、孝子はラウンジのスタッフを呼んだ。打ち合わせに備えて、軽食を注文するのだ。手渡されたメニューを見て、思う。焼き菓子のシェフセレクトが三〇〇〇円ときた。一葉が、ゲームならば、自分は、こう言おうか。デニムが買える、と。




