第七五九話 花咲人(二四)
涼子と斯波の婚姻届に捺印するため、と無理して印鑑を取りに戻らなくてよかった。これが翌日の孝子の実感となる。前夜の宴の二次会といっていい暖かな交流を二人と持てたことに加えて、那古野行きの同行者たちを、じりじりと待たずに済んだことから、である。一一月の初日。明日の大安、一粒万倍日の土曜に挙行される長沢美馬の披露宴に参加するため、孝子は西へ向かう。同行者となるのは、静とみさとだ。
当初、孝子は早朝にたち、寄り道などしながら、のんびり那古野を目指すつもりであった。舞姫の練習やら仕事やらがあるので、出発は夜に、などと言っている二人は眼中になかった。
「お姉ちゃん。お昼まで待って。自主トレしたら、すぐに帰ってくる!」
「午前で早引けするよ。だから、昼まで。お願い!」
しかし、懇々と請われ、渋々、入れはしたものの素直に二人を待っていたら、自分は、相当、いらついていただろう、と孝子は思う。もしかすると置いてきぼりにしていたかもしれない。本当に世の中、何が幸いするかわからない。よかったな、スー公にミサ公、と身勝手な女は一人うそぶく。
涼子と斯波との会食を終え、帰宅すると、二人の準備は万端となっていた。
「結局、お姉ちゃんが一番、遅かったじゃない」
「うるせえ。わざとだよ。待ってたら、そのうち、いらつきだして、一人で行っちゃってたかもしれないでしょう」
「あり得る。静ちゃん。抗議しちゃ駄目」
「ええー」
一笑の三重奏で、ここでの一こまは終わる。
「行くぞ」
引き連れて向かったのは郷本家だ。
「どうしたの、この車。郷さんが手配してくれたの?」
郷本家の駐車スペースにとまっていたキャンピングカーを見ての、みさとの感想だった。
「違うよ。あの人の車だよ」
叫声が、二つ。
「私を気遣ってくれたんだよ。マニュアルで、遠出に仕える車を買うので、どうぞ、って。軽で福岡と舞浜を往復するのは、やめて、って。これなら、中で、ぐっすり眠れるし、本当に、最高」
「やあ。今から?」
待機していたところに、騒ぐ声が聞こえたとみえる。尋道の姉、一葉が出てきた。
「あ。一葉さん。ご無沙汰です。これ。郷さん、思い切りましたねえ!」
「ここまでやれるのは自分だけ。ますます孝ちゃんの覚えもめでたくなって、カラーズでの一強体制に拍車が掛かる、ってね」
「うん。めでたい。実に、めでたい。ところで、一葉さん。その、めでたい男は? もうたちました?」
姿を見せない男の行方を孝子は問うた。
「午前のうちに出ていったよ。サプライズが決まって、式場の人と打ち合わせしなくちゃ、って」
「あの男、何をたくらんでるんです?」
「知らない。尋のやることだし、外れはないでしょう。それにしても、いいなあ。孝ちゃんたち、三人で、楽しそう。私も一緒に行きたいよ」
「あれ。一葉さんはリューイチ・セキと行かれるんじゃ?」
孝子は一葉と交際中という関隆一の名を挙げた。披露宴にて孝子が遂行する余興の相棒として、彼も那古野に向かうはずだが。
「そうなんだけど、隆ちゃん、今日は、どうしても外せない仕事があるって、明日の朝の三時発。は? 私は早起きが嫌いなんだよ」
「愛しの一葉さんと一緒がいい、っていう男心をわかってあげないと」
「早起きは嫌い、っていう女心をわからないやつのことなんか、わかってあげないよ」
小柄な体と長い髪とを揺らして一葉は言う。
「まあまあ。でも、そんな強行軍だと、ゆっくりできませんね」
「いや。私たちは向こうで一泊するよ。スイートルームだって。やったね」
「なんだと。お土産」
「ホテルのお土産、って何。まあ、聞いてみるよ」
「ほい。よし。君たち。荷物を詰めい。そろそろ出るぞ。入って、奥に収納があるから、そこに荷物、突っ込んで」
孝子と一葉のやりとりを眺めていた静とみさとが、号令一下、動きだす。
「それじゃ、一葉さん。行ってきます」
「うん。当日ね。気を付けて」
一葉の見送りを受けて、キャンピングカーは発進した。愛知県那古野市までは三〇〇キロ強。順調に流れれば、四時間後の午後六時前後に到着するはずである。




