第七五七話 花咲人(二二)
孝子の覚醒は、頬に触れた何かの感触によってもたらされた。犬の鼻先だろうが、と目を開けると、大写しのロンドの顔だ。予想どおりである。
「おはよう。何時?」
枕元に放っていたスマートフォンを、ロンドが前足で、ちょいちょい押してきた。手に取って確認すると午後四時だ。よく寝た。
ぼちぼち尋道が戻ってくるころ合いだろう。孝子は車外に出た。いた。こちらに向かってとぼとぼ歩いてくる。死の数分前か、というようなしょぼくれ方だった。
「犬。お出迎えしておいで」
車内から抱えだし、放つや、ロンドは素晴らしい速度で駆けだし、瞬く間に尋道の元へと到達した。途端に、半死人が生気を取り戻す。
「お疲れさま。犬は、ご苦労。その様子だと、たたいた?」
戻ってきた一人と一匹に声を掛ける。
「いいえ。疲れていただけです。ロン君のおかげでよみがえりましたけどね」
「斎藤さんは?」
「盛大にたたいてましたよ」
「久しぶりだっただろうしね」
「ええ。明日、早速、練習を、とかおっしゃっていたので、グループの方たちと話し込んでいる隙を突いて逃げてきました」
「冷たい男」
「そんなことをおっしゃるなら、あなたが付き合ってあげたらいい」
車両の後部に回り、荷室にゴルフバッグを収納していた尋道が返してきた。いけない。やぶへびとなったようだ。慌てて話題を転換する。
「そういえば、冷蔵庫の中身は、何。あれ」
「何、って。おやつでも用意しておけ、と?」
「そうだよ。あ。曲、できた。で、集中してたから、お腹が空いて、何か食べようと思って、開けたら、空っぽで」
「それは失礼しました。その後は?」
「仕方ないから、寝てた」
「どうしましょうか。レストランは、もうやっていませんし、こちら、スナックの類いもないですし。晩ご飯まで我慢されます?」
されるはずがなかった。忍従は孝子の性に合わない。
「わかりました。帰りに、どこか寄りましょう」
舞浜カントリークラブ至近のコンビニで軽食を取って、孝子はようやく落ち着いた。
「以後、非常食を常備すること」
「あなたが買えばいいでしょう。僕には必要ない」
身勝手は即刻却下された。
「くそ。犬。もう、その男には、お愛想なしでいいよ」
命ずるも、ダイニングセットで差し向かう男に抱えられた赤柴は、なんらの反応も見せない。
「孝子さまの命令は絶対だけど、尋道君とも仲よしだし、ここは聞こえないふりをしてやり過ごすわん、だそうです」
「駄犬」
受け取って、なで回す。
「時に、曲は、どのような感じに?」
「ああ。聞けよ」
再度、ロンドを尋道に渡して、孝子は立ち上がった。スコアを入力したシンセサイザーは荷室にしまっており、再び、引っ張り出すのも面倒なので、アカペラでいく。『Sweet on you』だ。
「宗旨替えでもしたんですか?」
歌い終えると、甘い、甘い、歌詞に対して尋道が評してきた。
「いや。おめでたが近いし。なんとなく。世に出るとして、歌うのは私じゃないしね。思い切り、やってやったよ」
「なるほど」
言って、尋道は、なぜか、くっく、と喉の奥で笑う。
「何」
「いえ、ね。実に失敬なんですが、こちら、世に出すとして、アートでもないな、なんて思ってしまって」
くしくもソングライターとマネージャーの見解は一致したようだった。
「実は、私も、それ、思った。あの子、なんか、その手って似合わないよね」
「まあ、考えてみましょう」
尋道がスマートフォンを手にする。策謀の気配を察した孝子は、彼の腕からロンドを抜き取り、ペットキャリーに収めた。そのまま連続する所作のうちに運転席へと移動する。速成を願い、帰途の運転は、できるだけ静穏に致すとしよう。そう決めて、スタートスイッチを押す指も、少しだけしなやかに運んでみる孝子だった。




