第七五一話 花咲人(一六)
待つこと五秒。斎藤英明税理士事務所に入るなり、エントランスロビーにとどめられた静が、みさとと再会するまでにかかった時間だった。
「お待たせ」
と言われるほど待ってはいなかったが静は会釈で応える。
「そこ」
みさとが指したのは玄関戸から至近の一室になる。扉には、Meeting Room、とあった。
「どうぞ」
軽いノックに対して室内から女性の声が返ってきた。
「失礼しまっす」
扉をくぐるみさとの背を追って静も入室した。在室していたのはスーツ姿の女性が二人で、一は麻弥、一は、初対面ではあるものの察しは付く。みさとの母親にして当初の副所長、かなえ氏に違いない。
「あれ。静。どうした」
むくれているのではないか、というみさとの予想は外れたらしい。目当ての麻弥は落ち着いているように見えた。
「うん。ちょっと」
「いらっしゃい。何か策でも練ってきたのかな。でも、返さないよ」
かなえの視線が、みさと、静、と動いた。受けて、みさとは、ぐいと押し返すも、静は圧倒されて引く。
「ないない。提携企業に対して、もう無体はできないよ。郷さんも明言した」
「じゃあ、何をしに来たの。ああ。その前に、みさと。お茶でも出しなさい。あと、お菓子」
取り残されるのか、と怖じ気づいても、勝手のわからぬよそのこと。買って出るわけにもいかない。小さくなってやり過ごすしかない、と静が思った瞬間だった。
「改めて、いらっしゃい。あれの母親のかなえといいます。神宮寺静さんね」
「はい。初めまして」
「あれがいないうちに聞いておこうか。何をしに来たのかな」
みさとにすごみを足したような美貌が、ずいときた。罠だったらしい。くみしやすし、と見られたのだ。
「え。あ。麻弥ちのことで」
「麻弥の、どんなこと?」
「イラストの」
「ああ。あれか」
「私、麻弥ちのイラスト、好きなんで。斎藤さんにお願いして、連れてきていただきました」
「なるほど。あくまでも麻弥次第だけど、私としては、そこまで辞めさせたりするつもりはないよ。どうする?」
「どうする、って」
「続けるか。続けないか、よ。こちらは、続けてほしいみたいだけど」
「はあ」
即答とはならなかった。むくれてはいないものの、麻弥の胸中は複雑、といったところか。
「麻弥ち。続けて。今更、他の人に変えられたりでもしたら、困るよ。グラフィックシャツっていったら、麻弥ちだもん」
「うーん」
煮え切らぬ。逡巡が、どのあたりに対して発生しているのか、見定める必要がありそうだった。
「麻弥ち。怒ってる?」
「いや。怒ってはいないけど」
少しく間が空いた。
「やりづらい。特に、孝子。あいつ、なんて言ってた?」
ニュアンスで語れば、ぽんこつのくせに利け者を疑うな、ぐらいの強みになる。もちろん、そのまま伝えられはしなかった。
「私も個人的に郷本さんに助けてもらったことあるし。すごく頭の回る人だよ。なんで、あいつが、なんて言ったのはまずかったと思う」
「静」
「うん」
「孝子って郷本が好きなのかな」
何を言い出すかと思えば、いけない。見当違いもいいところだ。そんな考えを抱いているようではイラストレーターとしての契約も危うくなる。ありったけの力でぶつかる時が来たようであった。
「麻弥ち。責任転嫁しちゃ駄目だよ。郷本さんを正当に評価しなかったからお姉ちゃんは怒ったの。それ以上でも、それ以下でもない」
彰に、聞いた話になる。高鷲重工の内定に断りを入れる際、同行してくれた尋道の弁舌の、なんとさえていたことか。あの超大物、黒須貴一を相手に一歩も引かず、むしろ、翻弄していたそうな。
「麻弥ちに、同じことできる? できないでしょう? なめちゃ駄目だよ。あの人を」
「なめてなんかないよ」
「じゃあ、なんで、なんで、あいつが、なんて言ったの。なめてるからでしょう。何。外見? それは、麻弥ちなんかに比べたら、地味めかもしれないけど、そんなの、頭のよさには関係ないよね」
「いや、そうじゃなくて」
都度、言い返されて、だんだんと静の頭にも血が上ってきた。
「そうじゃないなら、何! 言って! 早く!」
大声が過ぎたようだった。みさとがミーティングルームに飛び込んできた。
「静ちゃん、どうした!? 事務室まで聞こえたよ!」
「麻弥が怒られてるのよ。郷本氏を、なめてるんでしょう、って言われて、ぐねぐね返すばかりなもので。神宮寺静さん。これは、もう、この子の悪癖、って呼んでいいと思うんだけど、苦労性なのね。私にも言ってくることあるし、隣の男にだって言ったりする」
かなえが顎でしゃくった方向の壁の向こうには英明氏がいるのだろう。
「よくないよ、って常々、言ってきたんだけど、ここまでになると、きっちり教育をし直さないといけないと思う」
イラストレーター契約は、かなえの預かり、凍結とする。断は、下された。どうやら、静は、やって、しまったようだった。




