白髪の青年
退院する日の朝、目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む陽光が、床に白い線を描いていた。
ベッドの端に座り、あくびをしながら腕を伸ばす。
そして、ふと動きを止めた。
何かが、違う。
自分の手を見た。
指が長くなっている。皮膚の下で筋肉が明らかに盛り上がり、見覚えのない血管が浮き出ていた。
壁に掛かった小さな鏡の前に立つ。
「……なんだ、これ」
鏡の中からこちらを見つめる青年は、これまでの人生でずっと見てきた自分じゃなかった。
明らかに背が伸び、肩幅も以前より広い。体そのものが、別物になったようだった。まるで、積み重ねてきたレベルが、内側から体を作り変えたかのように。
だが、最も衝撃を受けたのは、体つきじゃなかった。
髪だ。
ずっと黒かったはずの髪が、今は——白。
真っ白。まるで雪に浸したかのような白さだった。
指先で触れてみる。本物かどうか、確かめるように。
「……これも、レベルが上がったせいか?」
答えは、見つからなかった。
病院着を脱ぎ、軽い運動を始める。
この運動自体は、別に目新しいものじゃない。
システムが毎日課してくるデイリークエストの一部だ。
だが、一瞬、手を止めた。
腕立て伏せ……腹筋……スクワット……。
こんなもの、もう何の苦労にもならない。
問題は、最後の一つだった。
ランニング。
「残りは、あとでやるか」
腕を動かすと、体に奇妙な軽さを感じた。
まるで、空気そのものが軽くなったかのように。
だが、今回は違う。
この体そのものが、まったく別物になっていた。
▽
突然、ドアがノックされ、返事をする前に開いた。
「黒崎さん、退院の書類にサインを——」
言葉が、途中で止まった。
俺を見る。
もう一度、見る。
「……あ」
一瞬、目を見開いたかと思うと、明らかな驚きとともに俺の体を見つめ始めた。
「あの……変わりました、よね?」
おそるおそる、そう尋ねてきた。まるで、失礼な質問だと恐れているかのように。
疲れた笑みを返した。
「まあ、ちょっとだけ。運動しすぎたみたいで」
完全には納得していない様子だったが、それ以上は踏み込んでこなかった。書類を机の上に置き、突然の訪問を詫びると、いつもより早足で出て行った。
学生服に袖を通す——俺が持っている唯一の服だ——と、すぐに袖がきつすぎることに気づいた。
その後、受付に立ち、お世話になった医療スタッフに礼を言った。
丁寧な笑み、軽いお辞儀、そして、好奇心を隠しきれない視線がいくつか。痩せた体で入院し、まったく別人のような体で退院していく青年に向けられたものだった。
それを気にせず、外へ出た。
▽
足が、思わず止まった。
目に飛び込んできた光景に、心の準備がまったくできていなかった。
滑らかな灰色の石畳の道。そびえ立つ石造りの建物。魔法で灯るランタン。馬車が行き交い、様々な種族の住人たちが店々の間を歩いている。ただ、見つめることしかできなかった。
「……本当に、異世界なんだな」
ここは……映画で見た中世ヨーロッパに近い世界だった。
数秒間、その場に立ち尽くし、眺め続けた。
それから、頭を振った。
感心している場合じゃない。
「俺には、二つの目標がある」
人混みの中を歩き始めながら、低い声で自分に言い聞かせた。
「一つ目……元の世界に戻ること」
「そのためには、大魔王を止めなきゃならない。何世紀も封印されてきた獣神を、あいつが解き放つ前に」
一瞬、足を止める。目に、冷たい何かがよぎった。
「そして二つ目……女神と、クラスメイトたちとの、借りを返すこと」
もう、怒りはなかった。
ただ——忘れていないだけだ。
やらなければならない仕事の締め切りを決めるように、静かに。
目の前に、ステータス画面を呼び出した。
【STATUS】
レベル:20
職業:なし
称号:毒の支配者
HP:1800
MP:300
STR:45
DEF:30
AGI:30
スキルポイント:12
「まだ、ポイントが残ってるな」
歩きながら、少し考えた。
「さて……どの能力に振るべきか」
「敵に大きなダメージを与えるには、力が要る。だが、そもそも攻撃を当てられなきゃ、力なんて無意味だ」
あの蛇を思い出した。あの速さは、本物の悪夢だった。最後に俺を救ったのは、力そのものじゃなく——土壇場で避ける能力だった。
「なら、敏捷性も伸ばす必要があるな」
「両方、上げよう」
「よし、決めた」
【STATUS】
HP:1800
MP:300
STR:49
DEF:30
AGI:38
スキルポイント:0
新しい数値を見つめる。
「これで……前より強い相手にも対応できるはずだ」
肩を動かすと、すぐに窮屈さを感じた。
自分の体を見下ろす。
学生服の袖が、腕にはっきりと食い込んでいる。胸のボタンも、今にもはじけ飛びそうだった。
ため息をついた。
「……新しい服が要るな」
手に提げていた袋を持ち上げる。中には、狼を倒して手に入れた牙が入っていた。
「この牙を売るか、それとも直接服と交換できるか……どっちでも楽な方でいい」
路地を歩きながら、服屋を示す看板を探し始めた。
▽
数分歩き回った後、刺繍入りのシャツの絵が描かれた看板を見つけた。
近づいていく。
店に着く前に、ほとんど同じ場所に立っている一人の青年に気づいた。
俺と同じくらいの年齢だろうか。
背中に巨大なハンマーを背負い、それを握る両手がわずかに震えている。
絶えず左右を見回し、明らかに緊張した様子だった。誰かに見られることを恐れているのか、あるいは誰かに追われていることを恐れているのか。
大して気にも留めなかった。目的は、あの店だ。
さらに近づき、ようやく看板をはっきりと見た。
「見つけた」
安堵しながら、そう呟いた。
だが、数歩離れた場所に立っていたその青年は、突然びくりと体を震わせた。まるで、俺の言葉が雷のように彼を直撃したかのように。
素早くこちらを振り向く。両目は、恐怖で見開かれていた。
「お前……何者だ? 俺を尾けてるのか?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。
だが、答える前に、彼はハンマーを頭上に振り上げ、全力で振り下ろしてきた。
ドゴオオンッ!
足元の地面が揺れ、ハンマーの落ちた場所の石畳が砕け散る。
粉塵が、辺りに舞い上がった。
その場から、動かなかった。
何も感じなかった。ただ、一撃の速さによる軽い風を感じただけだった。
青年が顔を上げ、俺を見た。その表情が、決意から困惑へと徐々に変わっていく。
「お前……何者なんだ!? 俺を狩りに来たのか!?」
もう一度、同じ質問を繰り返す。今度は、声がさらに震えていた。
これといった表情もなく、彼を見つめた。
そして、片手を上げ、たった一撃だけを放った。
シンプルに。
これといった助走もなく。
拳が、彼の胸に命中した。
体が宙を舞い、隣の店の壁に叩きつけられ、くぐもった音を立てて地面に滑り落ちる。
無関心に、それを見下ろした。
「買い物の邪魔をするな」
まるで、道端の石を蹴り退けるかのように、冷淡にそう言い放った。
それから踵を返し、彼から漏れるかすかな悲鳴も、衝突音を聞いて足を止めた通行人たちの凍りついた視線も、すべて無視した。
店の扉を押し開ける。
頭上で、小さなベルが鳴った。
何事もなかったかのように、中へと入っていった。
▽
青年は、その場から動けなかった。何が起きたのか、理解が追いついていなかった。
傍らに落ちたハンマーを見て、それから、ついさっきまで黒崎が立っていた場所を見た。
「……ありえない」
全力で、殴りつけたはずだ。
一歩も、動かなかった。
そして……たった一撃。
どう動いたのかすら、見えなかった。
胸に手を当て、唾を飲み込む。
「……あいつは、何者だったんだ?」
店の扉を、呆然と見つめ続けた。
「あの男……いったい、何者なんだ」
その場に立ち尽くしたまま、彼は何が起きたのか、理解することができずにいた。




